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ふつう〇〇だよね。
と言う言い方がある。この通りの表現でなくとも「ぼくたち(わたしたち)の間では常識」であるとか、そう言った、ふつうや常識を発表すること。
これが非常にやっかいだと考える。
例えば「殺人は悪であると言うのは常識だ」と言うこともやっかいだと言っている。常識だから悪なのだ。と言うなら、その常識はどこの誰が保証すると言うのか。
国、社会
例えば治水工事をしたりなど自然の脅威を出来るだけコントロールし、安定的な食料・水などの生産、供給を受けるには一定以上の集団の規模が必要で、そう言った集団を国とか、社会と呼ぶことにする。
川の水をどちらの集団が使うかなど、国どうしが争ったりすることはあると思う。東のA国と、西のB国があって、その間を南北に流れるC川の水量はふたつの国を十分に潤すほどでは無い。いや、これまでは良かった。まだA国もB国も規模が小さく、C川の水量は足りていた。しかし近年の両国の急激な発展、人口増加によって、いよいよC川の水量だけでは足りなくなってきた。水が足りなくなれば国が崩壊し、多くの死者が出ることも免れない。渇きで死んじゃう。困った。
こうなれば悠長なことは言っていられない。自分たちの民族、親族、家族を守るんだ。なんだかんだで他国には同じ民族、親族、家族はいない。あるいはいても少ない。だったら他国より自国が優先される。水の奪い合い。さあ戦争だ!C川をわが手に!!
みたいなのはわかる。
そりゃそうだ。もっと小規模で考えたって、目の前に今すぐ解毒剤が必要なふたりがいて、ひとりは知らないおばさん、もうひとりは自分のお母さん、そして、解毒剤はひとつしかない。さあどちらを救おうとする?そこにはその知らないおばさんの子供もいて、自分の母親に解毒剤を飲ませようとするワタシを当然妨害してくる。
この例え話は、今すぐ解毒剤が必要なのは自分の子供でも何でもいい。この争いに負ければ自分の親族が目の前で確実に命を落とす。とにかく答えは明白だ。この解毒剤争奪戦の勝敗はさておき、少なくとも争いもせず相手に譲るって選択肢は基本的にないだろう。どうにかして、自分の親族に解毒剤を飲ませたい。だから、こんな感じの経緯で戦争が起こるのは理解出来る。
だけど、基本的には国の内部で争っても仕方がない。もしちょっとした事で身内が争い、殺し合っていたら「例えば治水工事をしたりなど自然の脅威を出来るだけコントロールし、安定的な食料・水などの生産、供給を受けるには一定以上の集団の規模が必要で」と言う部分が成り立たなくなってしまう。
こんな内乱状態だと生産した食料を分け合うことも、仮に治水工事だって自分の家だけ水害を逃れるようにしかしなくなったり、そうすれば水の配給にも支障が出るだろうし、生活はもとより農業、食料生産も安定しなくなり、悪循環、いずれ国は滅亡してしまう可能性大。少なくとも良い状態ではない。
だから世界中のほとんどの国では戦争は起こらないに越したことはないが、ときには仕方がない場合もあるのかもしれないとしつつも、戦争ではない殺人には死刑や事実上の無期懲役など、少なくともかなり重い罰が用意されている。
「この罰を受けることが割に合わないからワタシは殺人をしません」なら分かる。(その他、○○と言う理由があって○○をしません。もわかる。)
けれど「○○は悪であると言うのは常識だ」から、常識なのでしません。は変だ。
国民の皆さま!明日から新しい常識(寄り添って仲睦まじく暮らしましょうが廃止、ソーシャルディスタンスとかありましたね)で暮らしましょう!「○○は悪であると言うのは常識だ」は常識から除外されますので、これを常識だと言った人は非常識です!
また、常識からは除外されますが、実際に○○が起こった際には、その犯人に与える罪状、罰については一切の変更はありません。
ならさらにわかりやすいだろうと思うけど、これなら文字通り「常識なのでしません。」は成り立たなくなるでしょう。
常識、ふつう、などそもそもなんの根拠もなければ、あるいは本来的な「何故そうなのか?」が失われて、結論だけがそこにあると言う、歪んだ状況でしかないのです。
常識やふつうを伝える
「ぼくたち(わたしたち)の間では常識」であるとか、そう言った、ふつうや常識を発表すること。
と、冒頭に書いたけれど、わざわざその常識(ふつう)を発表すると言うことは、発表される側が「ぼくたち(わたしたち)」に属しているかを試す行為である。
その常識(ふつう)が共有出来ている相手にはそんな当然のことを発表したりしないのだから、何処に線があるのかのチェックをしていると言うことになる。
これが少なくとも筆者には息苦しい。
仮に何処かに線があったとしても、それをめくりに(チェックしに)行くのは下品だと思う。
確認なら良いと思うのだ。例えば、この国ではライスに生卵を掛けて食べる習慣があるのだけど、アナタの国にはその習慣はないそうだね。今晩の食事はその生卵掛けライスなのだけど、アナタも同じで良いか?と確認する。丁寧だし親切だ。
しかし、これが「この国ではライスに生卵を掛けて食べるのは常識でふつうなんですよ」だけ言われたら、どう思うだろうか?
裏返すと「この国でライスに生卵を掛けて食べるのを常識でふつうだとしない人は、非常識でふつうではない」と言い放っている。
どう言う意図があるのかはさておき、相手にそれを伝える。
何の気なしに伝えているのかもしれないが、それを伝えられた側、その中には間違いなく、息苦しさ、ツラさを感じる人がいる。少なくとも筆者がそのひとりであるし、筆者には常識やふつうを発表しないで欲しい。
「ルール」を伝えられているならわかるのだ。
就業規則、ドレスコード、何でもいい。もしこの仕事で収入を得たいならこのルールを守ってね。当レストランへご入店の際はジャケット着用でお願いします。
嫌なら、その仕事は辞めて、別のレストランで食事を取ればいいのだ。
しかし、常識やふつうを伝えられるのは息苦しい。
常識やふつうを伝えられることが辛い
「常識やふつうの存在に息苦しさを感じているのではない」ことを改めて強調しておこう。
常識やふつうを伝えられることが辛いと言っているのだ。
何かしらの常識やふつうが集まってジャンル、区分が成される。それは和食でもいいし、ジャズでも、標準語でもいい。
標準語と言うのはわかりやすいかと思ったので、書いておくと、常に語尾に「〜やねん」「〜ずら」「〜だっちゃ」を着けて喋っている人がいたらその人が話しているのは標準語ではないと言っていいだろう。
何故なら標準語の常識、ふつうにおいてはそんな語尾は存在しないからだし、その常識やふつうがいくつも集まって標準語が一定の姿かたちを成している。
だけど、その人に「その語尾は標準語の常識、ふつうではないよ」と伝えるのはどうか?
伝えられた側は何を受け取ったらいいのだろう?
・そりゃそうだ
・しかしなぜ急に標準語の話が?
とか?ひとまず対応には困るよね。
知識は役に立つ
常識やふつうが存在していることは様々な秩序のために役に立つ。しかし、常識やふつうを伝えることは、秩序を守れ!の意味くらいしかないのではないか。
もちろん例えば、本当に知らない可能性がある場合は伝える必要があるのかもしれない。
江戸時代の日本人はイエス・キリストのことなんか知らなかっただろうし、いる前提で成り立っている欧米諸国とは当然常識やふつうがことなるでしょう。
いない前提で成り立っている国もあるのだから、そうだね。知識として、イエス・キリストと言うのがあってね。と教え、伝えてくれるならいい。それは知識。
だけど「イエス・キリストがいるのは常識、ふつうのことで…」と伝えられたら、やはりどうしたらいいか分からない。
いないよ。知識としては知ってるけど、ワタシの心の中にはいないよ。あくまで知識として、ワタシの心の外にあるよ。常識でもふつうでもない。
それでも「イエス・キリストがいるのは常識、ふつうのことで…」と伝えてくる人がいたら、これはもう〇〇が常識でふつうだった方が都合がいいから「〇〇は常識、ふつうのことで…」と伝えているようにしか思えない。
常識、ふつうなど、人それぞれで何処に線引きがあるかなんて分からない。
「〇〇は常識、ふつうのことで…」と伝えるのは、伝えられた側にとって都合が悪い、気分が悪い、異教徒、さぁぶっ殺せ!のニュアンスにしか聞こえない可能性があるのだから、やめておけ。
そうじゃない。許せ。何があっても赦せ。個人間ではゆるせよ。
ゆるす前提なら、「〇〇は常識、ふつうのことで…」なんて相手に伝える必要がない。知識を教えてくれるならありがたい。その知識が何かの役に立つかもしれないしね。
「ワタシは○○です」はいいと思う
「ワタシは○○です(○○を常識、ふつうだと思っています)」はいいと思う。自己紹介みたいなもんだ。
けれど、主語が大きくなるとダメだと思う。
・女性(男性)にとって○○は常識でふつうのことです。
・日本人にとって○○は常識でふつうのことです。
・人間にとって○○は常識でふつうのことです。
いやいや、他人を巻き込むなよ。
かつて流行った「実存主義」と言うのがあって、この主語がいちばん大きな「人間にとって○○は常識でふつうのことです。」について、「人間(の本質)とは○○である」を、人間は各自の主体性によってはねのけることが出来ると言うものがある。
※「実存主義」について詳しくはコチラ↓↓↓
「人間とは群れを作る性質があって、集団で群れを成して暮らします。うんぬん」と言ったところで、オレは違う!たったひとり、孤独に生きる!とかそう言うことが可能だ。主体的な自由意思によってお仕着せの「人間の本質」を跳ね返すことができる。だから、本質では縛れない!本質に規定されずに、可能性を追うことが出来る。みたいのが「実存主義」
そりゃそうだ。と言う話で、特に異論もない。
だからこそ、繰り返しになるが筆者はこう考える。
主語が大きくなるとダメだと思う。
・女性(男性)にとって○○は常識でふつうのことです。
・日本人にとって○○は常識でふつうのことです。
・人間にとって○○は常識でふつうのことです。
いやいや、他人を巻き込むなよ。
それらを突っぱねたくて生きている人たちだっているんだ。
なぜ他人を巻き込む?
「ワタシは○○です(○○を常識、ふつうだと思っています)」だけだと、孤立して自らの優位性を失う可能性がある。
結局は多数決、あるいは空気、雰囲気によって常識、ふつうは決まるのだろうから、「ワタシは○○です」と表明したものが多数派では無かったり、空気にそぐわなかったり、雰囲気にマッチしなければ、その集団の中で自らの優位性を失う可能性が高い。
だからと言って、「ワタシは○○です」を一切表明しないのも、多数派、空気、雰囲気が明らかになったあとに後だしで実はこう思ってましたをゆるすことになるので、ちょっと卑怯にも思う。
あるいはどのタイミングでもいいけれど、実はこう思ってましたでも何でも、一度口に出したら、理由も無く変更するなよとも思う。
優位性は誰だって欲しい、ぼくも欲しい。
だからこそ。
アナタの優位性の確保のために主語を大きくしているように思えるとき、それはワタシの優位性を損なうことでもある可能性があるのだから、じゃあ優位性の奪い合いだよ。ワタシはアナタに優位性を譲る気はない。となるのは普通なことに思える。
つまり、この状況を鑑みるならば「ワタシを含む大きい主語の○○は○○です」とわざわざ伝えること自体が、相手にとってマウント行為、優位性を奪いに来ている侵略行為でしかない場合があることを知るべきだ。
「ワタシは○○です」にとどめておけ。損するかもしれないけどね。
民意
常識やふつうを相手に伝えることのどうにも歪んだ感じ。筆者がそう感じていることはある程度伝わったのでないかと思う。
ここで、学校のクラス。教室の風景を想像して欲しい。
何らかの理由によってその教室内の多数派のリーダー、空気や雰囲気への最も強い影響を持つ人物がいたとしよう。つまり、このリーダー氏は、教室内の常識、ふつうに最も影響を持つ人物だ。
些細なことでもいい、○○神社の夏祭りに行こう!
別にいいんじゃないか?いやいや、敬けんなクリスチャンなので鳥居をくぐることすらはばかられる人がいるかもしれない。そうでなくても人混みが嫌いと言う人くらいならもっと高い可能性でいるかもしれない。
今日は晴れていて気持ちがいいなあ!
いやいや、太陽なんて嫌いだ!と言う人がクラスメイトにいるかもしれない。皮膚が敏感で太陽苦手とか、単純に雨が好きとか、いろいろあるかもしれない。
些細なことが積み重なる。本当は歪みがたくさん積み重なっている。
ああ、このクラスは居心地が悪い…と言う人も実はいる。
居心地悪そうにしていればそのうち、○○君はなんでリーダー氏の意見に否定的なの?いや、否定までしてないのはわかるけど、いつもリーダー氏が何か言うと嫌そうな顔するよね。とかなる。いやそれは…
些細なことがたくさんあった。でもどれも些細で、しかもリーダー氏の言っていることはせいぜい、○○神社の夏祭りへ行こう!とか、今日は晴れていて気持ちがいいなあ!程度、とくべつ何か言うほどのことでは無いし、クラスの大半は賛成を口に出して表明している。でも自分にとっては居心地が悪い…表情も曇る…
おい、アイツさあノリ悪くない?
疎まれだすかもしれない。
もう疎まれてるだけで、ある種いじめだし、「アイツはノリが悪いからハブろうぜ」みたいな空気が醸成されるのも時間の問題かもしれない。こうなったらもういじめだよね。
誰が悪いわけでもないのかもしれない。けれどこうやってクラス内の民意、もともとは存在していなかったクラス内の常識、ふつうは徐々に形作られ、それによってある者は追い込まれて行くのかもしれない。
だから筆者はこう思う。
民意らしきものを感じたら、無視しよう。
もちろんそんなことをしたら疎まれて損する可能性が高いけど、各自各々が民意らしきものを感じたら無視する。それならば、誰も損しない。
各自個別の「ワタシは○○です」だけが存在する世界を目指してみる。多様性みたいなやつだよね。この形がいいように思うよ。
まとめ
ふつう〇〇だよね。
と言う言い方がある。この通りの表現でなくとも「ぼくたち(わたしたち)の間では常識」であるとか、そう言った、ふつうや常識を発表すること。
これが非常にやっかいだと考える。
イメージ伝わりましたでしょうか?
以上
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【最終話】
— Yuichi Tanaka (@YuichiTanaka) August 19, 2023
突然だけどぼくは「哲学」が大好物なのです。
哲学に興味を持っていただけたら幸い
とても嬉しいです
差異(小さな物語)をそれぞれが力強く生きるその先にあるものとは⁉
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ではでは