心通りの世界
この世界のすべての万物、一切現象には、その物事が現れてくる理由、成ってくる道理があります。
種の無い所に実はならないように、この世の全てのものには種があって、その種が芽吹いた姿を私達は目に映しているんです。
その種とは一体何でしょう。
イギリスの哲学者、ジェームズ・アレンが1902年に、『原因と結果の法則』という本を書かれています。
聖書に次ぐベストセラーと言われるほど多くの人に読まれ、デール・カーネギーやアール・ナイチンゲール、オグ・マンディーノなどに影響を与えた自己啓発の源流と言われているのだそうです。
では「原因と結果の法則」とは、一体どんなものなのか?
それを簡潔に言うならば
「心が人格を創り、環境と運命を創る」ということ。
人は心の奥底にある、本心によって人格が形成され、環境や運命はそれによって引き寄せられるというのです。
決して考え望むものを引き寄せるのではありません。
本心から愛しているものや、恐れているものなど、同じ性質のものが心通り自然と与わってくるというものなんです。
つまり、心が種だと言えます。
天理教では「かしもの・かりもの」という根幹となる教えがあります。
「人間というものは身はかりもの、心一つが我がのもの。たった一つの心より、どんな理も日々でる」(おさしづ 明治22年2月14日)
と仰せになっています。
考えと、心は違うんです。
考えは知性や理性、経験等から身に付くものであり、それは頭脳にあるものです。
そして、考えは自己の判断に関係なく消失してしまうこともあります。
アルツハイマー等、認知症の方達を思い巡らせて頂けば、納得して頂けると思います。
しかし、心一つは我がのものと言われているように、心は生かされている限り無くなることはありません。
どんなに認知症が進んでしまった人でも、心はありますよね。
そして世界に日々現れてくる事、成ってくることは、その心通りなのだと仰せられるのです。
心の種は正直であり、善い種は善い実を結び、悪い種は悪い実を結びます。
ひまわりの種からスイカができる事は無いし、人間からカメが生まれることはありません。
それと同じように、人が刑務所に入ることや、人間関係で苦しまなければならないのは、運命や環境が根本的な原因ではなく、必ずその元となる心づかいが悪い種としてあるからなんです。
いつ蒔いたものなのか分からなくても、必ず種はあるんです。
清らかな心を持った人は、どんな誘惑を受けようと、犯罪に手を染めたりはしません。種の無いところには実はならないんです。
だから周りの環境や立場が人を創るのではありません。
私たちの日々の心づかいが人格を創り、環境や立場、そして見える世界が与わってくるのです。
私たちが与わっているものは、欲しいと願った通りのものではなく、善くも悪くも蒔いた種に相応な芽生えとして、成ってきた実りなんですね。
その種がいつ芽生え、実るのかは、人の力の及ばないところです。
どんな種を蒔くのかは一人ひとり自由ですので、私は楽しみの種を蒔きたいと思っています。
ですから、環境と戦おうとするのであれば、何をどうするよりも、自分の蒔く心の種を見直し、変えていく必要があるのです。
「心通りの世界」なのだから。
けれど多くの人は、善い環境を望みながらも、自分の心は変えようとはしませんから、根本的に改善されていくことはありません。
自分一人に与えられた環境ならば、自分の心を切り替えれば改善されていくかもしれません。
例えば、一人ひとりに与わってる身体という環境はそれにあたると思います。
しかし、多くの場合は人と共有する環境なんです。
それを改善していこうとするならば、皆の心が切り替わっていかなければならないんです。
この世界を変えたいと思うならなおさらです。
しかし、人の心を変えることは出来ません。
だけど、人の心を動かすことはできます。
それは、自分自身の心を変え、言動に映していく中で、一粒の種が万倍に広がっていくように現れてくるものだと思います。
では、どのように自分自身の心を変えていけばいいのでしょうか。
それでは、次回「世界がたすかる心の変え方」について書かせて頂きたいと思います。
最後まで読んで頂き有難うございました。