ディナーまでの遠い道のり
ちょうどこちらに到着して、十日ほどが経過してだいぶ生活も落ち着いてきました。なにしろ一年半ぶりの海外への渡航ということもあり、海外に行くこと自体の感覚がなまってしまっておりまして、今自分が日本を離れてイギリスで生活しているというのも不思議な感じがします。
昨日は、コーパス・クリスティ・カレッジというかなり古い名門のカレッジのフェローである、近代東アジア史が専門の旧知のバラク・クシュナーさんとお会いして、そちらのカレッジのダイニング・ホールでランチをいただいてきました。ハリー・ポッターの映画の世界のような厳かな伝統的なホールのハイテーブルでいただくランチは、なかなか貴重な経験です。こちらでのディナーとなると、ガウンを着てきっと重厚な雰囲気になるのだろうと思いますが、ランチの時間はむしろみなさん気軽なおしゃべりを楽しむ感じで、快適な経験をさせていただきました。
それにしても、カレッジのコートもまた壮麗で、季節が良いことと相まって、感激しました。クシュナーさんとはたまたま、立教大学、プリンストン大学、ケンブリッジ大学と、三つの大学に所属するという共通項ができまして、嬉しく思い、また身近に感じております。研究者としても優れた著作がいくつもあり、そのうちにいくつかは日本語に翻訳されている、優秀な歴史家の教授です。
さて、今月にイギリスに来てからは、ケンブリッジのカレッジのさまざまな慣習やマナーを学ぶことに努めるのとどうじに、コロナ禍やブレグジットによるイギリス社会の変化にも適応しないといけません。何がケンブリッジのシステムなのか、そして何がコロナ禍やブレグジットによる変化なのか、一見したところよくわからないところがあります。色々とわからないことが多いながらも、誰に聞いてもよくわからない。
イギリスと欧州統合の関係を、これまで自らの専門として大学院の修士課程以来研究をしてきてました。また、2016年には『迷走するイギリス』という著書を、ブレグジットの国民投票の3ヶ月後に刊行しております。ですので、自らの専門分野でもあるイギリスと欧州の関係について、実際にイギリスで生活して、ブレグジットのインパクトを感じてみたい、という気持ちがありました。
2021年1月の移行期間を終えた後に、イギリスに来たのはこれがはじめてです。「おそらくこうなるであろう」ということを、これまで新聞やテレビなど、いろいろなメディアで専門家として発信してきたのですが、その「答え合わせ」のような感じでいまは実際のイギリスの社会や経済、政治におけるその影響を身近で感じております。ある程度予想通りのこともあれば、予想と異なることもある。
たとえば、北アイルランド問題をめぐるイギリスとEUの摩擦や、イギリスとEUとの法的権限などをめぐる混乱など、いくつのことはあらかじめ予想していた通りですが、あまり予想していなかったこともあります。たとえばそれは、日本でもよくニュースでとりあげられている、さまざまな物資の不足を生み出す原因となっている、トラックのドライバーの不足です。関税の手続きなど、従来不要であったペーパーワークなどが急増して、国境を越えるヒトやモノ、カネ、サービスの移動が障壁に直面するのは想像通りですが、想定していなかったのは、トラックのドライバーがこれほどいなくなってしまうということでした。もちろんそれには、ブレグジットだけではなく、コロナ禍の影響も混じっております。
現在イギリスでは、トラックのドライバーが2万人から3万人も不足しており、そのことがイギリスの社会や経済に深刻な打撃を与えています。生活に必要な食料や医療のような物資から、ガソリンスタンドの石油など、多くの物資がトラックのドライバーの不足から、運ぶことができずに、物流が麻痺している状態のようです。イギリスにおけるトラックのドライバーの多くは、欧州大陸からの移民であったようですが、その人たちがコロナ禍ということもあって、特に東欧諸国などに帰国してしまい、そのまま帰ってこないという状況のようです。(下に関連のニュースのリンクあり)
ブレグジットにおいては、移民の制限を最大の旗印にして、ボリス・ジョンソン首相をはじめとする強硬離脱派の政治家たちはキャンペーンをしていたので、いまさらそれらの欧州からの移民にイギリスに戻ってきてくれとは言えません。実際には、それらのトラックのドライバーのイギリス滞在のための査証の条件を緩和しつつあるようですが、ジョンソン首相は強硬に、移民の滞在許可制限の緩和ではなくて、イギリス人のトラックのドライバーの養成を優先して、政策として掲げています。でも、今からトラックの運転手の養成って、どれぐらい時間がかかるの?
少なくとも、今イギリス人が心配しているのは、クリスマスの休暇にきちんと十分な食べ物や、生活必需品が確保できるかどうかです。日本とは異なり、イギリスなどヨーロッパでは、クリスマス休暇は完全に物流が止まります。ですので、休暇中に十分な食べ物や、飲み物など、事前に確保していなければなりません。いわゆる「パニック・バイ」といわれる、オイル・ショックの時の日本でのトイレットペーパーの買い占め騒動のような、車のガソリンをはじめ、さまざまな物資の買い占めが起こっているようです。おそろしいことです。これにあわせて、ジョンソン政権の支持率も当然ながら、下降気味。(下にはその実情を詳しく描いた記事があります)
このような労働者の不足は、身近な問題でもあります。たとえば、先週から本来であれば、ダウニング・カレッジでのダイニングホールで、フォーマルディナーが始まることになっていたのですが、カレッジでの料理人、給仕人などの不足と、十分な食材の確保の困難などが重なって、50人ほどのフェローを擁しながらもしばらくは一度のディナーでのフェローの出席者の上限を10人にするとのこと。ということで、順番に参加することになると思うので、おそらく私の席は当分先になりそうですし、年末までの学期中にそのような機会があるのかどうかもわかりません。コロナ禍による完全なロックダウンで、7月まですべてのイベントが休止となっていた昨年度よりはだいぶよいようではありますが、まさかブレグジットのこのような影響で、カレッジの生活にも支障が生じるとは想像していませんでした。
ジョンソン首相は、保守党の演説の中で問題の責任を他の人に転嫁して(具体的には、サッチャー首相も含めて歴代の首相の、単純労働に依存した経済を改革すると、問題のすり替え)、いつもながらの見事な弁舌で難局を乗り切るつもりだと思いますが、むしろコロナ禍の制限がなくなり、人々が自由に活動できるようになったからこそ、いろいろな生活の支障が浮き彫りになってきています。G7など主要先進国の中では、コロナ禍のこの一年半では、イギリスがもっとも大きな経済的な打撃を受ける見通しで、イギリスの下院における政府のコロナ危機への対応の検証報告書では、「大失敗」とかなり批判的な論調で結論づけているようです。
今回イギリスに来ることができて、自らの専門のイギリス外交史とヨーロッパ国際関係史の研究を進めたいと思っておりますが、同時にブレグジット後のイギリスの生活、社会、政治などを体験してみたいという気持ちもあります。思ったほど打撃を受けていないのでは、という印象と、思った以上にいろいろな影響が及んでいる、という印象と、今は両方がみてとれます。おそらくは、目に見えない打撃が大きくて、これらがじわじわとそれが効いてくるのかもしれません。
危機の中から1930年代にはケインズ経済学、1970年代には新自由主義経済学が誕生したようにして、再びイギリスの中から新しい経済思想が誕生するのかもしれません。困難が陸続するイギリスで、何か新しい動きというような萌芽を見つけられるのか、そのあたりにも注目したいと思っています。
と、今回はやや硬めのブレグジットをめぐる経済や政治について書いてみましたが、今日は土曜日。フィッツウィリアム美術館にちょっと行ってみようと思ったら、特別展覧会があり、あわせてコロナ禍明けでものすごい人が多くて、入場制限があり入れませんでした。もう少しすいた平日にでも今度は行ってみようと思っています。またいっそう秋が深まってきて、いよいよ冬の到来が聞こえてきそうです。その前に、良い季節ですので、色々と散歩を楽しみ、美しい景色を目に焼き付けておきたいと思います。
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