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我が父の記

父が死んでもう7年と4ヶ月が経とうとしている。元気にしてるかな?と、誇張でも例えでもなく思う。今でも自分の中の父は生きていて、今の自分の生活を時に苦い顔で、そして基本的には温かい目で見てくれている、はず。

決して良好な親子仲とは言えなかった。小学生の頃から晩年までずっと父に対しては反抗期だった。自分勝手で短気で夫婦喧嘩も多く、反面教師でしかなかった。厳しい面ばかりでフレンドリーな間柄だったことはほとんどなかった。多かれ少なかれどこの親子も男同士ならこうなのかな? 

それでも晩年は多少、自分も30代に入って、話が出来るようになった。自分の両親(僕の祖父母)が死んでどう思ったかとか、どうして学生運動に参加しなかったのかとか。病床で葬式に関しての希望を聞いたのも僕だ(枝葉の部分しか叶えてあげられなかったけど)。

前回の記事にも書いたが、今の自分の年齢の時に父は家庭も家も車も社会的地位もあった。今の自分とほとんど真逆と言っていい。しかし同じ年齢の男性としてぶち当たる壁や悩みについて問いかけてみることが時々ある。ねぇ、この時どうだった?とか。もし父ならどうするだろうとか。その辺は同じ血が流れてるから似たような選択をする気がなんとなーく、する。

葬儀の際に父の友人や同僚、上司らから聞く父の印象は家庭でのそれとまるで違った。誰にも優しく寛容で、積極的に場を設定して盛り上げる。人情派で誰からも好かれていたそうだ。
父は何を思って家庭であんな風に振る舞っていたのだろう。仕事のストレスもあったろうが、何か彼なりに築きたい家庭像があったはずだ。ただ、家族の性格や時間の制約など計画通りに行かないことも多かった。緻密な計画を立てるのが好きな人だったからそのストレスたるや。ボタンの掛け違いもさぞ多かったことと思う。

昔から夏になると父の意向で毎年家族でキャンプに行っていた。それもまた父への反抗心の素材の1つになったわけだが。で、僕が大学を出て就職した会社をあまり良くない形で辞めた後、父と2人だけでキャンプに行ったことがあった。今にして思えばよく行ったなと思うけど、まぁとにかく行った。冬だった。富士山の麓、満点の星空の下で、天然水で淹れたコーヒーを飲んだ。それだけは覚えている。それ以外のことを何も覚えていない。きっと、何かとても大切なことを父は話してくれたんじゃないかと思うし、自分も社会人の先輩たる父に自分が遭遇した違和感や不条理について話をしたはずなんだ。

でも、何ひとつ。

それまで厳しさ一辺倒だった父が社会から逃走した息子を連れてキャンプに行く。きっと父なりの癒しというか、自然の中で息子を回復させたり、自分が話を聞いてやりたいという気持ちの表れだったんじゃないかと思う。父は記憶力の高い人だったから話したことをきっと覚えていたんじゃないかな。今度会ったら聞いてみたいな。顔向けできる人生を送れたらの話だけど。

父が最後に観た舞台は、出演作ではなく脚本演出作品だった。それも父を殺して(乗り越えて)家を出ていく青年の話。エンディング曲は父も好きだったユーミンの“ベルベット・イースター”だった。どう思ったんだろうな。

父もまた父との関係が良好ではなかった。そんな父が病床で僕に教えてくれた言葉が「男は我慢」という言葉だった。父のまた父から言われてきた言葉らしい。今の時代的には男だからどうとか女だからどうなんてのは批判の対象になりそうだけど、そんな意味じゃなく、きっとどんなに時代が変わっても変わらない意味や価値を持つ言葉のように思える。この言葉の意味を探し、実感することが今後の人生に課せられた命題のようになった。

追記。
父は生前、頼むから役者なんて辞めてくれと僕に懇願してきたことがあった。今でも父を裏切り続けている後ろめたさのようなものが自分には、ある。

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