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ホーチミン Ho Chi Minh ②

今朝は昨日に続いてホーチミンさんという人物について、その生涯を駆け足で見ていきたいと思います。

ウラジーミル・レーニンの『民族問題と植民地問題に関するテーゼ原案』に感銘を受けたホーは1920年12月、フランス共産党の結成に参加。

1923年にソビエト連邦へ渡り、コミンテルン第5回大会でアジア担当の常任委員に選出された。

その後、ホーは共産党員として中華民国の広東へ向かい、ベトナム青年革命同志会を創立。1930年にイギリス領香港でそれまでに組織されていた3つの共産主義組織の代表を集め、それらを統一したベトナム共産党(間もなくインドシナ共産党と改称)を創立。 

論語や中国語を教育されていたホーチミンは40歳の時点で共産党内で頭角を現し、組織の代表を経験しています。
共産党を現代企業としたら、管理職に出世して共産党㈱アジア部ベトナム課の課長という感じでしょうか。

だが、ホーの民族解放を重視する姿勢は、民族問題をあくまで副次的なものと捉えるコミンテルンからは異端視され、1930年代のコミンテルン内部のベトナム人の共産主義者のグループでは、ホーは権力の中枢から疎外されていた。

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ここはホーチミンという人物のポイントと思われます。
ホーチミンは共産党をあくまで民族解放の為に共闘するビジネスパートナーと考えていて、政治思想や活動、思想教育から一歩距離を置いていたように見られます。

その後、コミンテルンが1935年の第7回大会で反ファシズム統一戦線に路線転換して民族問題を重視するようになり、ホーの姿勢はコミンテルンの主流となった。ホーのライバルとなるベトナム人共産主義者の指導者たちがフランスによって弾圧され、コミンテルンを代表するベトナム人共産主義者がホーただ一人となったことにより、ホーは政治活動の第一線に復帰した。

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ホーチミン45歳、チャンスが来ます。
民族解放という方針が組織の方針と一致して、更にライバル達が脱落していく。共産党活動から離れていたからこそ好機が巡ってきたのかもしれません。

ここからは第二次世界大戦に入ります。
これまで以上に複雑な流れに翻弄されることになるホーチミン。

ドイツと大日本帝国が勢力を拡大。

香港、モスクワ、中国共産党などで活動していたホーチミンは1941年、中国雲南省から陸路でベトナムカオバン省へ国境を越え、30年振りに故郷へ帰ります。

ここでベトナム独立のための統一戦線組織「ベトナム独立同盟会」(通称ベトミン)を組織してその主席に就任し、これまでベトナムを支配してきたフランスに替わり、新たにベトナムの事実上の宗主国的存在になった日本に対する武装闘争の準備に着手した。しかしベトミンは軍事力が弱く、1942年8月に中華民国に赴いて、日本軍と戦っていた蔣介石に協力を求めようとした。このときよりホーは従来の「グエン・アイ・クオック」ではなく「ホー・チ・ミン」の名を使うようになった。だが、中華民国との協力関係を結ぼうとしたホーは1942年8月、中国国民党によって逮捕され、1943年9月までを牢獄で過ごすことになる。周恩来の助けで釈放され、1944年にようやく根拠地に帰った。

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いよいよ本国にて、長く掲げてきたテーマ、民族解放を独立の為に独立同盟会のリーダーとして動きます。それと共に、ホーチミンの名前を使うように。
チミンは民を治めるで治民とも読めますね。
51歳でこれまでの活動が形になり、ようやく、民族解放という彼のライフワークが本格的にスタートしました。
成し遂げたい夢を実現する為のスタートラインに立ったわけですね。


8月30日にバオ・ダイ帝が退位し、日本の傀儡国家となっていた阮朝・ベトナム帝国が滅亡した。かくして大日本帝国政府が停戦に署名して第二次世界大戦が終わった同年9月2日、ホー・チ・ミンはハノイにおいてベトナム独立宣言を発表し、ベトナム民主共和国を建国して国家主席兼首相に就任した。

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大日本帝国が敗戦。
第二次世界大戦が終わるとホーチミンは独立宣言を発表。
ベトナム民主共和国(北ベトナム)のリーダーに。

ホーはベトナム民主共和国の国家建設に着手。社会主義を国家運営の原則とした。しかし建国の際に発表された閣僚名簿では、閣僚15名のうち共産党員は6名で残りの9名は非共産党員であった。
また1945年11月には、民族統一を優先して共産党が前面に出ることを避け、諸勢力を糾合するためにインドシナ共産党を解散工作。共産党組織は温存されたものの、1951年2月に共産党が再建されてベトナム労働党が結成されるまでは公然と共産党は活動できなかった。
1946年にホーが中心となって制定された憲法には、社会主義国家にみられる共産党組織による国家の指導規定は見られず、人権規定や私有財産権についてはフランスやアメリカの憲法を参照したと見られる。つまりベトナム民主共和国の『社会主義化』を漸進的に行おうとしたのである。

国家建設プロジェクトにあたり、彼は政治家として、共産党とその他勢力を上手く調整して立ち回っていたようにみえます。
閣僚内に自分の派閥を拡大したほうが政治がやりやすいはずですが、それをせず、各方面に気を配り、派閥を越えて支持されていたのではないでしょうか。この時、すでに57歳。
いままさに夢を実現しているという山場です。

独立を主張するベトナム側とフランス領インドシナの主権を主張するフランス側の交渉は難航を極めた。この間にもフランスはベトナム南部で軍を増強したが、ホー・チ・ミンは交渉を続け、1946年3月にはハノイ暫定協定を成立させた。しかし本協定調印までにフランスが南部のコーチシナにコーチシナ共和国を樹立し、交渉は妥結直前で決裂した。同年12月17日、フランス軍はハイフォンでベトナム民主共和国軍への攻撃を開始。12月19日、ホー・チ・ミンは『全国民に抗戦を訴える』を発表して抗戦を開始した(第一次インドシナ戦争)。民主共和国軍はフランス軍を圧倒、1954年にはジュネーヴ協定が成立し、フランス軍はインドシナ半島から撤退した。

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周辺国同様、戻ってきた元宗主国フランスと独立をかけて交渉、戦います。8年間の独立戦争(インドシナ戦争)を経て65歳でジュネーブ条約を結び、フランス軍を撤退させます。

第一次インドシナ戦争中の1951年2月、第2回党大会において共産党組織が復興しベトナム労働党が結成された。ホーは労働党主席に就任し、党と国家の最高指導者としてベトナム民主共和国をら統治した。ただし日常的な党務は第一書記のチュオン・チンに委ね、戦争終結後の1955年9月には首相職をファム・ヴァン・ドンに譲った。チュオン・チンが急進的に行った土地改革が失敗して1956年に党第一書記を解任されると、ホーは第一書記を兼任したが、1957年にはレ・ズアンを第一書記代理として再び党務を委ねた。だが、ベトナムの統一方法をめぐって、ジュネーヴ協定の完全実施という平和的な方法をとろうとするホーと武力による統一をめざすズアンとが対立、ズアンが党指導部を掌握するとホーの影響力は外交面に限定されていった。ホーは国家主席兼党主席として国政の重要問題について最終的な決裁を下す立場にあったが、集団指導の原則に従って党政治局の決定を裁可するだけで、党内人事・国内問題などの決定にはほとんど関与せず、ズアン指導部の決定を容認していた。

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ついに北ベトナムの新しいリーダーとなったホーチミンは戦後、次世代へ権限を譲渡していきます。

国内の統治を党と政府に委ねたホーは、国家主席としてソ連や中華人民共和国などの友好国との交渉や、交戦国のフランスや、フランスを支援していたアメリカなどとの駆け引きといった外交問題を担当し、集会やラジオ演説で国民を励ます役割を果たすことに専念した。

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一方、南部のコーチシナ共和国(南ベトナム)はのちのベトナム戦争の火種になります。


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