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第五十四話

 姿の見えない物の怪に不意に腕を捕まれ、奈落の底へと引き摺り込まれていく絶望。源一郎の言葉など信じることはできない、信じたくもない。

 隅田川に浮かぶ屋形船の上にいながら、梅の心は、海と出会った月夜の晩へと飛んでいた。朧げになっていくのを拒むように、何度も何度も反芻していた海の姿、声、体温、その狂おしいほど愛しいと感じた全てを鮮明に覚えている。思い出の中の海は、やがて目の前に現れ梅の手を握る。待たせて悪かったと梅を抱きしめ、苦悶しかない玉楼での渡世から自分を攫ってくれる。

 夜空に浮かぶ花火も、賑わう人々の群れも、梅の今いる場所から遠く離れた絵空事のようにしか見えず、現実から逃れるために浮かべた海の姿だけが、風前の灯のように消えかけている梅の生きる気力を、辛うじて繋ぎとめていた。だが、なんの気なしにふと、一際大きな屋形船に目を向けた時、梅は忽ち今いる現実に引き戻される。

「海…」

 開け放たれた障子の先に、確かに見えたのだ、海の姿が。矢も盾もたまらず立ち上がり、5間ほど離れた場所で浮いている屋形船の方へ少しでも近づこうと、梅は舟の端に走り寄る。

(やっぱり海だ!)

 出会った日から、毎日のように待ち侘び恋焦がれてきた男を見間違えるはずなどない。自分に気づいて欲しくて、海の名を呼ぼうと口を開きかけたその時、海が笑顔を向けている視線の先に、1人の女がいることに気がついた。海の隣りに当然のように座り、その笑顔を一身に浴びる、上等な着物に身を包んだ美しい女の横顔。

『斎藤海は妻を娶った。相手は江戸幕府の老中、間部忠義の娘、一介の遊女のおまえなど足元にも及ばないお姫様だ』

 源一郎の言葉を思い出し、梅は、自分が見ている光景の意味を理解した。自らに都合のいい想像や願いなど、非情な現実をこの目で見取ってしまえばなんの意味もなさない。好いた男にようやく会えた喜びが、一瞬にして絶望に変わる。視界がかすみ、船底が歪んでいく錯覚に囚われ立っていられなくなる。

『とにかく明日腹の子を流してもらう。反論はないな』
(消えたい…この世から、この腹の子と一緒に、消えてなくなりたい)

 闇夜に波打つ川の水が、こちらへ来いと誘うように蠢き、梅はなんの躊躇いもなく自ら川へ飛び込んていた。

仄暗い水底へと沈んでいく身体。
冷たい。
苦しい。
息ができない。
だが、どんな苦痛に踠き悶え狂っても、もう、この世に戻りたくはない。
直前に見た、他の女に向けた愛しい男の笑顔が梅の脳を支配し、絶望に抱かれたまま、梅は意識を失った。

 気がつくと梅は、光一つない漆黒の闇の中をひたすら歩いていた。幼い頃のように、闇に怯える気持ちは微塵もない。
 この世の果てで自分が辿り着くのは、極楽浄土かそれとも地獄か?どちらでもいい。生きていたって、待ち受けているのは地獄の日々だ。ならば今更、何を恐れることがあるだろう?腹の子と一緒にあの世へ逝けるのなら、自分はもう、地獄へ堕ちても構わない。
 しかし、ひたすら闇に向かって歩き続けた梅が辿り付いた先は、地獄でも、極楽浄土でもなかった。


「目が覚めたか?」

 最初に聴こえてきたのは、源一郎の声。耳は次第に、騒めく人々の喧騒を捉え始め、見開いた目には、灯籠や提灯の薄ぼんやりとした光と、星の輝く夜空が見える。首を横に向け目線をずらした梅は、自分が河原に敷かれた赤い毛氈の上に横たわっている事がわかった。
 戻ってきてしまったのだ。自分は、あの世へは行けなかった。そう理解した途端、堰き止めていたものが崩壊するように、涙と嗚咽が同時に溢れてくる。

「ウッ…グッ…うあー…うあー」

 耐えられず、梅は声をあげて泣いていた。両腕を瞼の上に乗せ、目からも鼻からも、塩からい雫が大量に溢れだし、みっともなく喘ぎ叫ぶように出てくる声を止めることができない。
 源一郎は、しばらくの間何も言ってはこなかったが、やがて、ただひたすら干からびるほど泣き続けている梅に、冷めた声を投げてくる。

「そろそろ泣きやめ、もうすぐ蔦谷様達が帰ってくる。おまえが川に飛び込んだ後、皆には屋形船に戻ってもらったが、おまえのせいでせっかくの花火見物が台無しだ」

 血も涙もない源一郎の言葉。止まらぬ嗚咽を漏らしたまま、瞼を抑えていた腕をはずし源一郎の方に顔を向けると、源一郎の髪や肌も、自分と同じように濡れている。自分を三途の川から強引に戻したのは、この男なのだろうか?わからない。川に落ちてから目覚めるまでの事を、梅は何一つとして覚えてはいなかった。
 
「酷い泣き顔だな、それじゃあ遊女の武器にもなりゃしない」
「…武器?」

 意味がわからず尋ねると、源一郎は、冷めた表情で梅を見下ろし応える。

「遊女ってのはな、朝客が帰る時、目に涙を溜めて男を見送るんだよ。例え好きでもない男でも、惚れてるように見せて、また会いにきたいと思わせる。涙と嘘は遊女の武器だ。
おまえは、おまえに目をかけてくれていた佳乃花魁を覚えているか?あの高嶺の花の花魁が、綺麗に涙を一雫落として、名残り惜しげに客を見つめるんだから、男達はそりゃいちころだった。だが、おまえの醜い泣き方じゃ、男は引いて逃げてくだろうよ。全く、小さなガキみたいにワンワンみっともなく泣きやがって」

『梅、しわくちゃになった帯の代わりに、おまえにはこれをやろう』

 源一郎の言葉に、梅は、記憶の奥底にしまいこんでいた、佳乃との出来事を思い出す。

『まあ、お前がこの帯に相応しい遊女になれるかどうかはわからないが、猫に小判だったなんてことにならないように、私に恥をかかせるんじゃないよ』

(ごめんなさい、佳乃花魁…私には無理だ…)
 もう、生きていたくない。自分のことなど忘れ、他の女と幸せそうに笑う海の姿を見せつけられ、明日には、否応なしにお腹の中にいる子を流すことが決まっている。辛い、苦しい、怖い、悲しい、あらゆる負の感情が梅の華奢な身体の中で肥大し、内側から壊されていく。

 何も答えられないまま、自分をこの世に戻したのであろう源一郎を、恨めしい気持ちで見たその時、ヒューという音が鳴り響いた。瞬間、源一郎の背景に広がる夜空に、無数の火花を散らして消えていく美しい花火が梅の目に映し出される。

(なんて、綺麗なんだろう…)

 屋形船に乗っている時は、夢うつつの中にいて見えていなかった、鮮やかに花開き、美しい金糸のように細くなって消えていく花火。もう、苦痛以外何も感じる事はできないと思っていた心の琴線が微かに震える。

 あの日、目が眩むほど美しい金糸で、花鳥の刺繍が施された立派な帯を目にした時も、梅は今と同じように、その美しさに見惚れた。お凛以外の禿や新造達に蔑まされ、嫉妬され、嫌がらせを受けるなか、そんな梅に、自分の帯を譲ると言ってくれた佳乃。あの時自分は、何を思っていた?

(自分も、この帯に見合う花魁になりたい)

 無知な子どもの身の程知らずな夢。花魁どころか、梅は今、髪も着物もずぶ濡れの惨めな姿で、心底好いた男に見向きもされずに捨てられ泣いている。

「おまえは、俺が初めて目利きして買った女だ。しっかり稼げる遊女になってもらわないと困る。そんな不細工な顔で泣くのは今日でおしまいだ。どうすりゃ綺麗に泣けるのか、鏡でも見て練習しろ。涙を見せるのは、客の前だけにしろ」

 その声に導かれるように、梅は、花火に奪われていた視線を源一郎にもどす。源一郎は、自らの後ろに打ち上がる花火に見向きもせず、睨むように梅を見つめていた。その目には、慰めも同情も哀れみもない。源一郎は、生きろと言っているのだ。どんなに絶望しようとも、遊郭に買われた女が、勝手に死ぬ事など許さないと…

 一際大きな音が響き渡り、夜空に煌く花火が、再び梅の目を惹きつける。涙でぼやけた視界に映る花火は、残酷なほど儚く、消えてもなお鮮烈に残像が刻みつけられるほどに美しかった。

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