無明が生む「自己と対象と苦」の関係
本当に自己を受け入れたのならば、その人は絶えず自己批判するはずである。相手をもっぱら批判する人は、自己批判を兼ね備えていなければならない。
でなければそれは批判精神があるのではなく、単に攻撃的精神の持ち主であるというだけの事だ。
真に自己批判のできる人だけが相手のためを思い批判をすることができる。
何かを求めるというとき、何か行動を起こすというとき、それはすなわち、対象に向かって進んでいくと同時に何かから逃げているということをさしている。
自己批判はこの「逃げている状態に向き合う」営みである。他者への批判はこの問題意識を共有しようとする営みである。批判精神において重要なのは自己と他者が「問題を共有できているか」「共通する問題を抱えているかどうか」である。
我々が希望を抱いて行動するのは「ここにある何か」から逃げているからであり、それが無明から逃げる「行」の性質であり、我々の根本的な行動原理とされる。
「希望を抱く」ということが、仏教においては必ずしもポジティブな意味にならないのはこのゆえだ。
けだし、常に「逃げようとしている」状態が苦なのである。