唯心

触れ合って、生きる。 曹洞宗僧侶

唯心

触れ合って、生きる。 曹洞宗僧侶

マガジン

  • 仏教

  • 保存用

  • 『トマスによる福音書』訳(2020.5.19)

    聖書に載らなかった『トマスによる福音書』を 超・個人的な都合と趣味で解釈してみました。 ちょっとずつ更新していきます。 日本語訳は 荒井献氏の『トマスによる福音書』を参考にしています。 生前のイエスを「30代の若者」として純粋に親しみたい欲求で書いてみました。 ※『トマスによる福音書』は聖典に載らなかったものの生前のイエスの言行録として貴重な史料である。 ※ミッション系の大学に通っていた時から、個人的に生前のイエスの親しみやすさ、ユーモアに触れてみたいという願望がずっとあった。それは仏教の僧侶となった今も変わらない。 ※もちろん聖書に載らなかった福音書を取り上げるからといって、キリスト教の経緯や歴史、信仰を否定する意図はありません。 ※ひとつの宗教として、ひとりの僧侶として、キリスト教を尊敬しています。

  • 『アルグレンの懐中電灯』

    「夜回り自警団」に入団した少年アルグレンを主人公とする 不思議な世界のおはなし。

最近の記事

坐禅堂。

さる7月24日。 その日の朝は妻を実家に見送り、 以前facebookでもあげていた 今年開単した近所の坐禅堂に寄った。 健康診断の再検査まで時間があるので 少しだけ坐禅させてもらった。 そこは毎月1週間の接心をしているが、 坐禅堂を24時間開放しているというのにはなかなか驚いた。 いつでも好きなときに来て坐禅してよいという。 まだ建物はプレハブのような小さなものに過ぎないというが、カフェやお店が隣接する近辺のロケーションも素晴らしいせいか、落ち着いて坐れる良

    • 「山びこ学校」の無着成恭氏。

      先日、職員の先生が 「自分の母親の母校が『山びこ学校』のモデルとなった学校なんです。」 と教えてくれた。 「山びこ学校…?そういえば」 今まで何度か話を伺ったことがあった。 『山びこ学校』とは、昭和26年に出版された作文集である。 この作者は、無着成恭氏という山形県の中学教師で、 曹洞宗僧侶として住職もつとめていた。 職員のお母さんは山形県出身ということは知っていた。 昔から里帰りで山形へ行くことがあり、 自分も近年、山形へ行くことがたびたびあったので山形

      • 蓮田山長松寺 施餓鬼会2023年

        蓮田山 長松寺 Hasuda san choushouji 明日、施餓鬼会(せがきえ)です。 檀信徒全体では4年ぶりです。 施餓鬼とは。 ひとつには 世界はあなたを必要としています という呼びかけ。 たとえ誰にも必要とされていなくとも。 ふたつには 自分はみんなに必要とされているから偉いんだ。 お前なんかに必要とされなくてもいいんだ。 そのどちらも慢心であり、餓鬼の心であり 苦しみであると、五如来からの呼びかけです。 みっつには その呼びかけをどなたにも分け与えて頂

        • ネパール旅行(2022年8月17日~8月24日)

          8月17日(水) 早朝、始発に乗って上野駅まで行き、京成上野駅から京成スカイライナーで成田空港まで向かった。飛行機の時間は午前10時半ごろで時間的にはだいぶ余裕があったが、久しぶりの海外旅行なのとコロナ禍であるのと色々不安もあったのではやめに到着した。 出発ロビーに向かうと他の便へのチェックインには朝早くからすでに多くの人がいた。おそらくハワイやクアラルンプール行きなどの便に乗る人たちだろう。たくさんの外国人が大きな荷物を持って列を作っていて、日本人はあまりいなかったように思

        マガジン

        • 仏教
          4本
        • 保存用
          1本
        • 『トマスによる福音書』訳(2020.5.19)
          4本
        • 『アルグレンの懐中電灯』
          1本

        記事

          花鳥風月

          花が咲くのは理想を求めているからではなく 鳥が飛ぶのは前向きな気持ちになろうとしているからではなく 風はこうじゃなきゃいけないと思って吹いているわけではなく 月が美しく浮かぶのは褒められたいからでもない。 生きるのに理由は存在しない。 それでも ”花は人の心を咲かせ、鳥は人に夢を抱かせる。 風は人に季節を知らせ、月は遠き人を想わせる。” 人が心を咲かせ、夢を抱き、季節を知り、人を想うのは 素直に生きるときだけだと思うのです。

          花鳥風月

          無明が生む「自己と対象と苦」の関係

          本当に自己を受け入れたのならば、その人は絶えず自己批判するはずである。相手をもっぱら批判する人は、自己批判を兼ね備えていなければならない。 でなければそれは批判精神があるのではなく、単に攻撃的精神の持ち主であるというだけの事だ。 真に自己批判のできる人だけが相手のためを思い批判をすることができる。  何かを求めるというとき、何か行動を起こすというとき、それはすなわち、対象に向かって進んでいくと同時に何かから逃げているということをさしている。 自己批判はこの「逃げている状態に

          無明が生む「自己と対象と苦」の関係

          『埼玉県佛教幼児画展』2021年度

          2021年度埼玉県佛教幼児画展にスタッフとして参加させていただきました。 最近、テレビの出演者が描いた絵をプロの方が評価するという番組を見たのですが、当然ながら絵の上手さを評価できても、絵を楽しんでいるかどうかを評価するのは難しいと思います。もちろん絵を楽しむためのひとつの指標として、上手さを評価することは大事なのでしょう。 「丸木美術館」をご存じの方はいらっしゃるでしょうか。同じ埼玉県内にあるこの美術館には縦1,8メートル、横7,2メートルの絵が展示されています。「原爆の図

          『埼玉県佛教幼児画展』2021年度

          「どう」生きるかではなく「なぜ」生きるか。

          https://hasunoha.jp/article/topics/1757 生徒さんから「自分が宗教に興味なくても、人間には何らかの信仰が必要なのではないか」という意見が多数出るようになった。 ーー本文より 名古屋の東海学園高校による取り組み。 浄土宗立の学校だそうだが、 宗門系でなくともこういったテーマに、 宗教の有無に関わらず、10代のうちに触れることは 非常に大事だと思う。 「どう生きるか」ばかりが注目されるけれど、 その前に「なぜ生きるか」がある。 それが、その

          「どう」生きるかではなく「なぜ」生きるか。

          『トマスによる福音書』⑬~⑮

          ⑬ イエスが弟子たちに言った。 「あのさ、何でもかんでも断食すればそれで信仰が深まると思ったら大間違いだよ。祈るにしてもそうだし、人に施しをするにしてもそう。 わざわざ自分からやったって、本当にそれが尊いこととは限らないんだからね。 そうじゃなくてさ。 たとえば普通にどっか出かけたときとかさ。 旅先でおもてなしを受けたら「断食中なんで…」とか言ってないで有り難くいただくとかね。 そこで病気で困っている人がいたら、祈ってないで介抱してやるとか。 そういうことをやってほしいわ

          『トマスによる福音書』⑬~⑮

          『トマスによる福音書』⑩~⑫

          ⑩ イエスが言った。 「この空もね、いつかは去っていくんだよ。 その空の上もまたそう。人だってそうさ。 死ぬときは死ぬし、生きるときは生きる。 それでいいじゃないか。それがいのちというものだよ。 それなのに君たちときたら、死ぬと分かるとずっとそれに悩まされつづけてばかりだ。 いのちの光に満たされていればそんな悩むことないのに。生と死は本来ひとつだよ。 どうして君たちは自分をふたつに割ってしまうんだい。 ふたつに割れてしまったところから、すべての悩みは生じるんだよ。」 ⑪ 弟

          『トマスによる福音書』⑩~⑫

          『トマスによる福音書』⑦~⑨

          ⑦ イエスは言った。 「大事だなと思ったこと以外は遠慮なく捨てていいんだよ。だから何でも俺に聞いてよ。 たとえばの話だけどさ、腕のいい漁師は網にたくさん引っかかった魚の中から、大きくて良い魚だけ選んで、ほかの小魚たちは逃がしてやるそうだよ。 頭いいよね。これが実は一番効率がいいって分かってるんだよね。 だからさ、聞きたいことがあったらじゃんじゃん聞いてね。」 ⑧ イエスが言った。 「おっ見ろよ。種まきが出ていったぞ。あんなに種をポロポロこぼしていいのかね。 道に落ちた種はど

          『トマスによる福音書』⑦~⑨

          『トマスによる福音書』④~⑥

          ④ イエスは言った。 「目の前にあるものをよく見てみなよ。 何があなたの眼をくらましているのか、すぐに分かるはずだ。 なぜかって?『目くらまし』というものはいつも目の前にあるからさ。」 ⑤ 弟子たちがイエスに尋ねてこう言った。 「断食した方がいいですか。 どのように祈ればいいでしょうか。 また施し物はどのくらい人に与えるべきですか。 どんな決まり事を守るべきでしょうか。」 イエスは答えた。 「おいおい、正直になれよ。 なにも自分を痛めつけるためにやるんじゃないんだって。

          『トマスによる福音書』④~⑥

          『トマスによる福音書』序~③

          序 これはイエスが生きていたときに語っていた、ナイショの話だ。 ディディモ・ユダ・トマスっていう人が書き残してくれた。 イエスはこう言ったそうだ。 「これから言うことを理解できたら、死ぬことなんて怖くないよ。」 ① イエスは言った。 「(真実を)探し求めている人がいたら、それが見つかるまで決して邪魔をしてはいけないよ。見つけたら彼はアッと驚くことだろう。世界はこのようである。自分とはこのようであるとね。彼はもはや何物にも惑わされることはなくなるだろう。」 ② イエスは

          『トマスによる福音書』序~③

          病院。

          ある程度、覚悟をしていたのかもしれない。 しかし考えてみてくれよ。 3歳児が覚悟するってどういうことだ? そんな前向きな姿勢を3歳児が知るはずないだろう。 覚悟したわけじゃない。どうしていいか分からなくて、なんかどこへでもいいから逃げたかっただけだ。 子どものころを思い出すと「懐かしい」と感じるのが普通だ。 それは僕もそうである。 でも僕が「懐かしさ」を感じるとき、いつもそこには「うしろめたさ」がつきまとう。 僕の原風景はうしろめたさだった。 どうしていいか

          和室。

          「いちばん古い記憶」から母が亡くなるまで一年とちょっと。 結局のところ、僕と母の思い出はこの短い間にしかなかったことになる。 いわば、この「短いあいだ」から僕の人生は始まった、僕は「生まれた」といってもいい。 僕が住んでいたお寺には会席用の和室があった。 広い和室の真ん中にぽつんと白いふとんが敷かれていて そこで寝かされている人の顔には白い布が被せられていた。 それがどういうことかを「理解する」には早すぎたし、一方で それがどういうことかをありありと「感じ取る」にはじゅ

          序文

          「夜回り自警団」に入団した少年アルグレンを主人公とする 不思議な世界のおはなし。 聖典にもたびたび登場する「ハプナシオン」にまつわる伝記、 『アルグレンの懐中電灯』(ベリツェ写本)を一部、紹介。 歴史上いくつもの写本がつくられてきたが 他と違い、その内容はほとんど知られていなかったにも関わらず 現代まで”生き延びた”写本である。 この写本を、永く奉じてきた通称”ベリツェ派”を由来とする『ベリツェ郡』は今、地方都市としても古都としても世界中の人々に魅力を伝えている。 か