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【短編小説】親心

 江戸の、ある雨の日のことである。ひとりの虚無僧が、濡れた道の端に横たわって動かないでいる仔犬を見つけた。死んでいるかとも思ったが、近づいてみると、ハ、ハ、とかろうじて短い呼吸を続けていた。
 かわいそうに、苦しいだろう。虚無僧は仔犬のそばにしゃがみ込み、かぶっていた天蓋を脱いだ。天蓋によって弾かれ、大量の雨粒から守られていた男の乾いた黒髪は瞬く間にぺしゃりと潰され、頭頂に昆布でも乗っけているのではないかと思われる。髪や衣服の布はぺったりと肌に纏わりついて重たくおぶさって離れず、鬱陶しいかぎりである。激しく打ちつける雨の中で、その高僧は天蓋の中に仔犬をそっと入れ、手ぬぐいを広げて全身を覆うように被せてやった。こんな薄っぺらな布一枚でも、無いより良いでしょう。そうして虚無僧は天蓋を抱えて立ち上がり、早足で帰路に就いた。
 屋根の下に入るなり、早速、仔犬の看病を始めた。濡れて冷たくなった体を拭いて毛布をかけてやり、僅かではあるが食べ物を用意した。仔犬は、はじめは差し出されたものを拒んでいたが、やがて、一口食べてみて、気に入ったのだろうか、また一口と食べ進めた。ほどほどに腹が満たされるとそのうち眠りについた。虚無僧はそっと、すやすやと寝息をたてる仔犬の背中を毛並みに沿って撫でた。それも終わると、彼も床についた。
 数日もすれば、仔犬はすっかり元気になり、虚無僧とも大変仲良くなった。仔犬は、男の持つ尺八に興味があるようだった。何度も尺八をくわえようとしては、この虚無僧に、
「だあめ」
 とやんわり叱られどれだけ跳ねても届かない高さにまで尺八を取り上げられてしまうのだった。お前、これは遊び道具じゃあないんだよ。楽器なんだ。こうやってね、音を出すんだよ。そう言って虚無僧は実際に尺八を吹いて見せた。吹く間、仔犬は相変わらず尻尾を振り続けて尺八を狙っていたが、しばらくするとだんだんと落ち着き始め、最後は男の足元に利口にお座りして大人しく演奏を聴いていた。
 翌日、虚無僧は仔犬を連れて、あの雨の日初めて仔犬と出会った場所へとやってきた。
「さあ、母親のところへお帰り。きっとお前を心配している」
 何も分かっていないような、それでいて何もかもを悟っているような、つぶらな瞳を揺らせて仔犬は小さくひとつ鳴いた。虚無僧は仔犬に哀しく微笑み、
「達者でな」
 それだけ言って、背を向け歩き出した。仔犬は、追ってはこなかった。
 あれから数日たったある日のこと、その虚無僧に突如、非常に奇妙で愉快なことが起こった。いつものように尺八を吹いているときだった。雅な音に混じって、犬の鳴き声が尺八から出てくるようになった。鳴き声の種類は様々で、はしゃぐような鳴き声もあれば、寂しそうな鳴き声もあり、ときには遠吠えが出てくることもあった。
 また、尺八の穴からひゅるひゅると草木が芽生え、花を咲かせる。そんなこともあった。加えて穴から無数の梅の花がぽんと飛び出てきたりもして、そんなときは、虚無僧の通った後の道におびただしい梅の花が落ちているから、男がどこを通ったかというのが一目瞭然で分かってしまうのだった。
 恩返しの、つもりかな。虚無僧は可笑しくて仕方なかった。この尺八、あの仔犬の仕業に違いない。あの子はまだ小さかったから、何をしてあげたら人間が喜ぶのかを知らないんだ。それで、知恵を振り絞った結果がこの尺八の現象であるか。お前、これは助けてもらったことへの精一杯の礼のつもりか。これで私が両腕放り上げばんざいするとでも思ったのか。そう考えると、くすくす笑わずにはいられないのだった。
 可愛い未熟。虚無僧はあの仔犬を愛しく思った。
 この虚無僧の赴くところ、彼とすれ違った人々はその姿を二度見三度見せずにはいられなかった。尺八の演奏とともに、犬の鳴き声と草木や花が出てくるのだから、無理もない。男は一躍有名となり、うわさを聞きつけてわざわざ彼を見に来る者もいた。そういう者たちは決まって、この愉快な尺八を目の当たりにすると、わあ、と間の抜けた感嘆の声を漏らして、それからしばらく虚無僧の跡をつけてみたりするのだった。その日もその次の日も、お布施はいつもの何倍も多くもらった。
 一ヶ月も経てば、虚無僧はすっかり人気者となった。天蓋の中には人ではなく犬の頭が隠されているだとか、尺八から飛び出した梅の花は大変な縁起物で、手に入れると良いことが訪れるだとか、あらぬ噂まで立つようになった。しかし、男はそのようなものには一切の関心を持たず、道行く人にも媚びず、ただひたすらに修行に邁進するのみだった。あの可愛い可愛い仔犬をそばで感じられる。それだけが日々、控えめな温度を持って虚無僧にしあわせの明かりを灯した。
 しかし、ある日を境に愉快な現象はぱたりと止んでしまって、虚無僧の尺八もただの尺八に戻ってしまった。はて、と男は不思議に思った。これはもしや、何かの知らせ? まさか、あの仔犬に災いでもあったのではないか──。虚無僧は尺八を膝の上に横たえた。杞憂に終わるといいのだが。何故だかこの細長い尺八が、あのまん丸な仔犬と重なる。虚無僧は仔犬を撫でるように毛並みに沿って──尺八に毛などないが──一方向に優しく尺八を撫でた。
 その日も、男はいつものように尺八吹いて行脚していた。ただの尺八に戻ったから、彼も「ただの虚無僧」に戻った。彼は度々尺八の穴を覗いてみては、その穴から何も生えていないことを確認しがっかりした。尺八を吹くとき、度々息の送り方を変えてみては、やっぱり笛の音しかしないと落ち込み、度々後ろを振り返っては、梅の花が彼の来た道に落ちていないと残念がった。そうして心の沈むとき、決まって男はあの仔犬の面影を見るのである。
 ある団子屋の前を通りがかったとき、そこで働く娘が、
「あら」
 とにっこり笑って小走りで何かに駆け寄っていくのが見てた。何気なく目で追うと、その先にはあの仔犬がいるではないか。あっ、と思わず虚無僧は小さく叫ぶ。心なしか、成長して少し大きくなった気がする。仔犬は、わん、と元気にひとつ鳴いて、尻尾を忙しく振っていた。
「また遊びに来たの。場所が分かって、お利口ね」
 団子屋の娘はしゃがんで仔犬を両腕で抱いた。その光景をしっかり目に焼き付けると、虚無僧は深くかぶった天蓋をさらに深くかぶり直し、再び歩き出した。天蓋に隠されて、彼の表情は誰も見ることはできない。
 そう、そうなんだよ。分かるようになったか、お前も。一番の恩返しは、お前が元気に生きていることなんだよ。
 同時に男は、あの幼さゆえの不器用な恩返しをもうしてくれることもないのかと少し寂しくもなった。あの仔犬との数日間がやたら昔の出来事のように感ぜられ、じんと懐かしくなる。虚無僧は、尺八を握る手の親指で、そっと、側面の竹を撫でた。

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