大切なものを護るためにも甲斐性って大事。
下書きに残したまま早2年。とんでもなく放置したけれど前回の『責任と甲斐性。』の甲斐性篇をあげておこうかな、と。
内容は当時のまま。
A○ONでチビ猫を保護して10日。
うちの先住猫の1匹を母のように、2匹を兄のように慕い始めた頃。
「先日言ってた保護猫、もしまだ引き取り手が見つかってなければ是非お迎えしたいと言っている人がいるのだけど」
と、ツーリング仲間(といっても8つ歳上の方)が声をかけてくれた。
その頃の私は「引き取り手が見つかって歓迎されて、大切に飼ってもらえたら良いな」という気持ちと「そう簡単には見つからないだろうな」という経験からの気持ちが半々だったので、引き取りたいという申し出は純粋に嬉しかった。
過去に13年、猫の飼育経験がある人ということもあり、そのままサクサクと話が進み、互いの予定も照らし合わせた結果、引き渡しはその話をした「翌日」に決定した。
(ここで誤解を招かないように補足しておくと、もちろん飼育環境や動機、職業など、不安なくお任せできる方かどうかはしっかり吟味したし、子猫の検査も済ませた。)
前回の投稿で"責任を持って''とは言ったものの……
何を以って「責任を持つ」というのか。保護した責任を私はしっかり負えたのだろうか。譲渡前日に改めて考えさせられていた。
私は恥ずかしながら、この歳にもなっても半年後の就職について全く考えず、未だにギターを振り回してバイクを乗り回しているような人間で。
この子の人生、おおよそ20年近くまともな生活を保障できるのか、と問われると返答に困るのが本音だ。
生き死にを人間が決めるな、と保護したは良いが、結局譲渡するのなら自分だってその場の「可哀想」に流された偽善者と然程変わりないのではないだろうか。
それは責任を持ったことになるのだろうか。
愛情さえたっぷり注げられたならばそれで責任を果たしたことになるのか。
それとも、それほど愛情はなくても食事や生活に支障がないように養えたなら、それは責任を果たせていることになるのだろうか……
勿論、愛情だけでは生かしてあげられない。
しかし(突然心理学の話を挟むが)栄養が確保できたとしても愛情がなければ(つまるところ母親や自分以外の個体との触れ合いがなければ、ということ)子は死んでしまうという。
当たり前のことなのだけれど、結局のところ「責任」の中には「甲斐性」も含まれるのだ、と今更ながら気づかされた。
(結婚の話題などで度々挙がる「好きだけでは云々〜」がその時漸く理解できた私であった。)
引き渡しの日には、仲介をしてくださった方と引き取り手の家族が総出で迎えに来てくれた。
歓迎されていた。
私が保護したときのような「困惑」ではなく「笑顔」が溢れていたし、きっと幸せにしてくれるのだろう。
ここから2年後の現在のお話。
当時お声かけしてくれたツーリング仲間の彼は彼氏になって、この2年間、彼氏を通じて里親さんから保護猫の様子が送られてくる。
すっかり成猫になって甘やかされながら生き生きと自由に生活している様子が。
実はその猫を引き取っていただいた1年後(つまり現在からいうと昨年)もう1匹保護した子猫を引き取ってくれた。
彼氏曰く、その人はすっかり保護猫の虜らしい。
2匹が姉妹のように仲良くしている姿も時折送られてくる。
その姿を見て、ちゃんとした人に譲渡する責任を果たせて良かった、と思うのだ。
甲斐性は未だあるとは言えないけれど。
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