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夜に惑う鳥は、朝陽に焦がれる

ー あなたの恐れは、あなたの心を縮こませ、あなたの気持ちをこれから起こり得る沢山の素晴らしい可能性から遠ざけてしまうこともあります。向き合うということは、痛みを伴います。でも、どんなに小さな一歩でもいいから、まず踏み出してみましょう。辛くなったらいつでも立ち止まっていい。まずは一歩踏み出してみましょう。

グループカウンセリングの終わりに、カウンセラーの先生からそう手渡されたプリント。次回みんなで集まるときには、それぞれがその時に言えることだけでいいから、発表しあうことになっていた。トラウマになった出来事が起きたのはいつで、その時に何を感じたのか。

誰かに聞かせることを意識する必要は一切ない、と先生は言った。飾らない、ありのままの素直な気持ちで、振り返って向き合えるだけでいいから、と。

染谷アリスは、プリントに目を落とし、そしてノートパソコンの画面に目線を移す。何度目か数えることすらあきらめたため息が、無意識に零れ落ちた。

わたしにとって、忘れられない、とても苦しかった経験は、子供の頃に受けた性暴力です。はっさいのときにおじからうけたせいぼうりょくです

まだ外が明るいうちに、書いておけばよかったのかもしれない。でも、どうしても書く気になれず、ぎりぎりまで後回しにしてきた。明日は発表の日。もう逃げることはできない、と覚悟を決めたものの、この2行を書くのが精いっぱいで、それ以上の言葉は、どんなに考えても、書くことが出来なかった。

はっさいのときに、という言葉を目にするだけで、頭の奥がぼんやりとしてくる。おじ、という単語から、連想される、酒臭い息、組み敷かれた時の重さと苦しさ、生暖かく汗ばんだ肌の不快さ。抵抗すら封じられ、恐怖で身動きも出来なかった、小さくて弱かったあの頃の自分の感覚に引き戻されてしまう。そうするともう、正常に何かを考えるということが難しくなった。頭の中に靄がかかったようで、覚束なくなる。

ピチチチ… 窓の外から、早起きな鳥の囀りが聞こえてきた。
アリスはもう一度無意識のうちに深いため息をつくと、ノートパソコンをそっと閉じて、まだ薄暗い寝室に戻ってベッドにもぐりこんだ。夜更かしと、トラウマの追体験のためか、靄のかかったじんじんする頭を、柔らかい枕に埋めるようにして、ほんの少しだけ眠った。

染谷アリスは、8歳の時に両親を交通事故で亡くした。
アリスの父は日本人、母はフランス系のカナダ人。父が留学先のカナダで就職した会社で出会い、熱烈に恋に落ちて結婚、すぐにアリスが生まれるも、仕事の関係で日本に戻って来て、それからはずっと日本で暮らしていた。

ほっそりとした長い手足と、左目のブルーグリーンの瞳は母親譲り。右目は父親と同じ、やや明るめの茶色。オッドアイは子供の頃、色々な人から好奇の目を向けられ、時に心無い言葉を投げかけられることもあった。

両親が亡くなった後、アリスは唯一の親族である父の弟に引き取られた。同居するようになってすぐ、性暴力が始まった。

庇護者であるはずの身内の大人の男性に暴力を振るわれ、脅され、性行為をさせられる。両親を失って悲しみに打ちひしがれていたアリスにとって、心が壊れるほどつらい事だった。

ー お前はまざりものの子。両の目の色が違うのも、お前が混ざりものだからだ
ー 女は世話になる男にはこうやってご奉仕をするものだ。当たり前のことをしているだけなのだから、助けを求めても誰も助けてはくれないぞ

叔父はそんなことを言って、アリスの心に絶望を植え付け、抗う術を奪い、恐怖心で飼殺していた。そしてそれは、アリスが初潮を迎えた中学2年の春まで続いた。叔父はペドフェリアだったのだろうと思う。女性の身体になっていくアリスには、性的な関心を向けなくなり、そのことでアリスの心に考えるゆとりが生まれた。子供の頃に強要されたことへの嫌悪感と反発が芽生えるようになった。

大学は海外に行きたい。とにかく叔父と関わりを持たなくて済むような場所に行きたい。そう強く思うようになり、必死で勉強して奨学金を勝ち取り、高校卒業と同時にアメリカに渡った。

子供の頃から、透き通るような声を褒められてきた。苦しくて仕方ない時に、何度も心を慰めてくれたのは音楽だった。留学先に選んだのはロサンゼルス。母の友人であるマーサがハリウッド作品にも関わっているような脚本家で、ロサンゼルスに住んでいて、留学するのなら頼ってほしいと快く言ってくれたことも背中を押してくれた。

ほぼ一年中、朝起きると雲一つない晴れやかな青空が広がり、カラッと過ごしやすいロサンゼルス。思い思いのタトゥーを入れ、髪を染め、着たい服を着て、みんなそれぞれ自分が自分であることを楽しんでいる。アリスのオッドアイも、きれいだな、と褒められることはあっても、気味悪がられることはなくて、それがとても居心地がよくて、アリスはロサンゼルスが大好きになった。

ボーカルクラス、学校で出会った仲間とバンドの練習に明け暮れる中で、大好きな音楽で生活していけるように、と眠らない街の様々な夜の仕事にもチャレンジした。ラウンジシンガー、ショーガール。そして、そこで同僚にレイプされた。

新天地で、自分の人生をこれから生き直すという希望に満ちていた中で出来事で、アリスの心は打ちのめされた。一瞬にして、8歳の自分の絶望の記憶もよみがえり、恐怖で身体が動かなくなった。そして、アリスは声を失った。全く声が出なくなってしまった。

声が出なければ、ボーカリストとしての夢を叶えることはもう出来ない。身体の機能の欠陥ではなく、心的なことだからこそ、治るかもしれないし、治らないかもしれない。治るとしてもいつ治るのか誰にも分らない。そのことがアリスを深い悲しみの底に突き落とした。

かといって、叔父のいる日本には戻りたくない。茫然自失のアリスに、マーサが提案したのは、ヴィクトリア島への移住だった。

ー ガンが見つかっちゃって。ちょっとゆっくり過ごしながら、好きなことだけをして生きたいと思ったのよ。あなたもよかったら一緒に来ない?

好きなだけいていいからね、もうあなたは私の娘みたいなものなんだから。マーサはそう言って、アリスを抱きしめてくれた。

ヴィクトリア島へは、バンクーバーからSea Planeという、スキー板を履いたような水上での発着陸が出来る小型の飛行機に乗る。がたがたと揺られながら2時間もすれば着く。豊かな自然と、イギリスの影響を色濃く残した街並みが美しい。観光地として世界中から訪れる人もいる一方で、居住地エリアは人もまばら、時間の流れがここでは何倍も遅いのではないかと思えるほどゆったりとしていた。

春になると手入れされた庭に咲き乱れる色鮮やかな花が美しく、豊かな自然は様々な表情を見せてくれて。毎日その日にやりたいと思ったことをやることを日課にしたマーサに誘われるがままに、ガーデニングをしたり、一緒に絵を書いたり、お菓子を作ったり、ハイキングをしたり。何にも追われずに過ごす中で、傷ついたアリスの心は、ゆっくりゆっくり落ち着きを取り戻していった。

マーサの別荘に移り住んで二度目の春が過ぎて。マーサは庭に咲き乱れる沢山の花に囲まれて、眠るように息を引き取った。マーサの希望で出来る限り病院には行きたくないということだったから、心の赴くままに作った沢山の作品に囲まれた自宅で最期を過ごせたのは、きっととても幸せなことだったのかもしれない。

アリスは夜通しマーサの手を握り、マーサの好きな音楽をかけて、時々話しかけては、泣いていることが悟られないように声を殺して泣いて、一晩中そばにいた。明け方呼吸が変わって、ああもういよいよなんだ、と思って、とても胸がつぶれそうなほど悲しかったけど、それでもずっと手を握って、ゆっくりと呼吸が止まるその最期まで見守った。

マーサはアリスにとって、いつしか母のような、近しくて大切な存在になっていた。異国の地で自分をあたたかく向かい入れ、自分が苦しい時にそばにいてくれた人。だから、マーサが亡くなって、ぽっかりと心に穴が開いたような気持ちになった。呼吸が止まって、身体がどんどん冷たくなっていっても、お葬式で棺の中に沢山の花を入れて、手紙を入れて、棺の上に土がかけられてすっかり埋まってしまっても。マーサと暮らしたマーサの別荘には、マーサの匂いが残っていたし、朝起きてコーヒーを入れていたら、マーサがおはようと明るい声で声をかけてくれるような気がした。

マーサが亡くなる前、アリスの声がいつまでも戻らないことをとても心配していて、カウンセリングを勧められた。自分でもこれからどうしたらいいのだろう、と不安を感じていたのもあり、アリスは勧められるままカウンセリングに参加し、グループセッションにも顔を出すようになった。グループセッションには10代の若い子から、マーサより少し若いような、様々な年齢層の女性たちが集まっていて、みんな自分の心の中にある昏さと何とか折り合いをつけようとして藻掻いているのだった。みんな同じ。自分だけではないということは、アリスを少しだけ安心させ、同時にこんなにも色んな人たちが苦しんでいるのだ、と思うとかなしみは深くなった。

トラウマと向き合い、その時のことについて発表をする、というセッションは、想像以上にみんながお互いに悲しみを分けあってしまい、誰が何を言ってもみんなで涙を流すような状態だった。

アリスは声が出せないので、いつものようにノートパソコンの画面をプロジェクターにつないでもらった。一晩中悩んでやっとの思いで書いた二行。部屋中から鼻をすする音がした。

痛みを分け合うことには、自分の痛みを受け止め、その上で相手の痛みを想像し、寄り添おうとする力があるのかもしれない。それまで穏やかに緩やかに同じ空間を共有してきた人たちと、今までよりも心の深いところでそっと寄り添えあえたような微かな明るさがあった。みんなでそっと手を繋いで、最後に少し瞑想をして、その日は解散になった。

その後も、トラウマと向き合う課題は引き続きあったのだけれど、グループカウンセリングを担当していた先生が、ご家庭の事情でバンクーバーに戻ることになり、グループカウンセリングは後任が決まるまでは保留となり、それぞれ個別のカウンセラーの先生が紹介されることになった。

アリスの新しい担当のカウンセラーは、デイビッドというミュージシャンから心理療法士に転向した男性の先生だった。音楽が好きだという共通点があっていいのでは、と勧められたと聞いた。

デイビットとの最初のカウンセリングは、彼がビクトリア湖の湖畔に持っているカウンセリング用のスタジオで行われた。その日はとても穏やかに晴れた美しい日で、燃えるような緑と、朝陽の揺らめきが水面に反射して、とてもきれいだった。

アリスが到着すると、スタジオにはジャズが小さくかけられていて、デイビッドはキャラメルソースをたっぷりかけたカフェラテを出してくれた。デイビッドはアリスよりも10歳年上で、癖のある薄い茶色の髪に、インドアの文学青年といった雰囲気の、どちらかというとやや瘦せ型の長身で、メガネの奥の目はないだ湖のように静かだった。控え目な性格が長身を持て余しているかのように、ちょっと身をかがめて歩くような人だった。

ビクトリアでの生活のこと、お互いに好きなミュージシャンのことなどを話して(ノートパソコンに書いて見せるという筆談?)、その後ビクトリア湖の周辺を散策した。美しい景色にアリスの心がゆっくりと癒される。

散策を終えてスタジオに戻ると、デイビットはアリスをある部屋に案内した。

「ここはね、防音室なんだよ」

デイビットはゆっくりと言う。静かな音楽がかかり、ふかふかのカーペットと、座り心地のいいビーンバッグチェア、その横には観葉植物が置かれている。静かな気持ちでずっといたくなるような、とても居心地のよさそうな部屋に、アリスは安堵した。

「だから、ここでは何を言っても大丈夫。叫んでもののしっても、何を言っても誰にも聞こえない」

デイビッドはアリスに椅子をすすめると、自分はカーペットの上に座って目線を合わせた。

「何を言っても大丈夫だからね」

誰も君を批判しない。ここは安全な場所だ。デイビッドはそう言うと、アリスの目を見てそっと微笑んだ。

「君のカルテを読ませてもらったんだ。一人で誰にも言わずに、抱えてきて苦しかったね。マーサさんのことも、とても悲しかったろう」

とても不思議なもので、この日この時に、このタイミングでかけられたこの言葉が、アリスの心を覆えっていた分厚い氷のような何かを通り抜けて、アリスのありのままの心にそっと寄り添うように届いたのだった。

ぽたぽたと涙がこぼれて止まらなくなった。身体の奥から、大きな震えが次々と湧き上がってくる。次の瞬間、

「ううううああああああ!!!」

言葉にすらならない、傷ついた獣の咆哮のような声が、アリスの口から叫びとなった。

8歳の時、怖くて苦しくて悲しくて、そして叔父へ感じていた怒り。
どうしてこんなことをするの
ひどいよ
いやだよ
言えなかった言葉たち。そして当時の傷ついた自分と向き合うことを、生きるためにずっと逃げてきたこと。様々な感情が嵐のようにアリスの心と身体を通り過ぎて、それがこの言葉にならない叫びになった。

デイビッドはアリスの身体を支え、背中を優しく撫でてくれた。堰を切ったように溢れだした叫びが収まるまでには、かなりの時間を要したけど、それまでずっと、そうしていてくれた。

叫んで叫んで叫んで。喉がちぎれるのではないかと思うほど叫んで。
やがて涙も収まり、気持ちも落ち着いた頃、アリスは少しだけ部屋で一人にしてもらい、窓を開けて風を顔に感じながら、何を考えるでもなくそこに立ち尽くした。湖畔の木々が風にそよぐ様を、きらめく水面を、魅入られるように見て。気が付いたら、大好きな歌を口ずさんでいた。

とんでもなく掠れた声になってしまったけど、自分の声が戻ってきた。
見失った友達と再会したような気持ちになった。
天使のようだね、とかつて褒めてもらった透き通るような歌声はもう出せないかもしれない。でも、これが今のわたしの声。

悲しかったこと、苦しかったこと、怖かったこと。あの時向き合うことが出来なかった。それを一歩踏み出して、これからもまた時々躓いたり、逃げ出したりすると思うけど、ゆっくり時間をかけて向き合っていこう、とアリスは思った。

ピチチチ...
今夜の寝床に戻る鳥たちの囀りが聞こえる。気づいたら窓の外は、すっかり傾いた陽が、燃えるような夕焼けを水面に投げかけていた。アリスはその美しさに圧倒されるように、息をのんで、ココアを持ったデイビッドがやってくるまでの間、声もなく夕焼けに見とれていた。

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