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短編アーカイブ「後ろ姿」

「じゃぁ、最後に何か質問ある?」

二者面談もこの生徒で最後。彼は、クラスでは特別目立つわけでも、脇役に徹するわけでもないような、どこかつかみどころない生徒。いつもはこんなこと聞かないのだけど、 そのときはひと区切りしたかったのか、そう聞いていた。そして、その子がそんなことを聞いてくるとは思ってもいなかった。

「先生は、どうして不倫してるんですか」

私は思わず「え?」と声を出し、動揺してしまう。そしてそのときほど、嘘のつけない自 分の性格を嫌だと思うことはなかった。確かに私の交際相手は既婚者だ。

「どうしてそんなこと知りたいの?」

あぁ、違う。「そんなことしてないよ」とか「バカなこと聞かないの」とか、そんなようなことを言えば終わるはずだったのに。バカなのは私の方だった。

「ただ、単純にどうしてかなと思うだけです」

「まぁ、いいじゃない」と言って終わらせよう。

「どうしてかなって思うのは、変だと思うから?」

だから、違うって。なんでそんなこと言っちゃうかなぁ。

「いいえ、不倫するのは変じゃないですけど、不倫という字には"不"っていう字があり
ますよね? "不"っていう字は打ち消すということじゃないですか。つまり、倫理を打ち消す。倫理的なことじゃないんでしょうか」

倫理を持ち出されるとは。そこまで聞かれてしまったのなら仕方ない。私も私の性格通り 嘘を付かずに答えよう。

「坂下くんも、女の子を好きになったことあるでしょう?」

「はい、あります」

「そのとき、倫理的だとかそうじゃないとか考えた?」

「いや、考えてないと思います」

「そう、それと同じことだよ。考えてたらできないんだよ、恋っていうのは」

「だけど先生には向いてないと思いますよ」

彼に言われて、また 「え?」 と聞き返した。

「先生、嘘付けないし、白黒はっきりしたいタイプでしょ? それって、不倫するの、すごく疲れると思いますよ」

確かにそうなのだ。私は嘘をつけず、何事もはっきりしたい。その方が人生が明確になる からだ。だから不倫するにしても、相手の迷惑にはならない距離にいることを徹底している。そういうルールをはっきりと作って、割り切って付き合っている。それは明確であるはずだ。だけどじゃぁ、どうして疲れているのだろう。どうして彼の帰り際に、もう戻ってこないかもしれないという不安を覚えるのだろう。また会いたくなるのをどうしてあんなにも我慢しきゃいけないのだろう。それはやはり、"倫理を打ち消しているから"なのだろうか。

「うん、そうかもね……それでもいいと思っていたんだけどね」

私は力なく答えた。

「わかりました。ありがとうございました。 僕からの質問はそれだけです」

そうして彼が立ちあがろうとしたのを、私はさえぎって言った。

「じゃぁ、私からも質問するけど、いい?」

「進路のことならもう充分だと思いますけど」

「ううん、そうじゃなくて。どうして私が不倫してること知ってたの?」

そう聞くと彼は、ニヤッとして、

「知りませんでしたよ」

と言った。それから、「どうして不倫はいけないんですか」と聞こうとしたのを、間違ってしまっただけだと笑った。間違ったけど先生が答えてくれたので、と。私はもう少しだけ話をしてみる。

「不倫は文化だとか言う人もいたけど、坂下くんはどう思うの?」

「だからって男はみんな浮気すると思われたら困ります」

彼はきっと倫理的にそう思うのではなく、純粋にそう思っているのだとわかった。これは 私の想像でしかないけれど、おそらく彼は私が不倫していることを知っていたに違いない。だからって、それを弱みにするつもりもないだろう。私だって、弱みを握られたなんて思ってもいない。ただ、私の心のもやもやが、とれたことだけは間違いなかった。

「わかりました。じゃぁ、以上です。 気をつけて帰りなさいね」

「はい、 さよなら」

彼の後ろ姿は夕焼けと溶け合って、まぶしかった。

(2010)

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