ミニストーリー「野菜ジュース」
その子は川沿いの小さなベンチで、ボーッとしていた。10才前後だろうか。パックの野菜ジュースを手に持って、川のほうを見ている。
どこか大人びているように思える。
その様子を横目に彼を通り過ぎたわたしは、その隣のベンチに腰をかけた。
それから同じようにボーッとしてみた。
川のせせらぎがキラキラとしていて、その上でカモがプカプカと浮かんでいた。
「何をしてるの?」
と、隣のベンチにいたはずのその子が、こちらにやってきてわたしに話しかける。
ちょっと面倒だなと思ってしまって大人げなく「ごめんね、一人になりたい気分なの」とやんわり距離をとった。
するとその子は、わたしの隣に座って言った。
「それはちょうどよかった、ぼくも一人になりたい気分でね。気が合うから、お話でもしないかい?」
その口調にドキっとする。
そしてつい「あぁ、うん」と答えている。
彼は「よかったら」と手にしていた野菜ジュースを差し出した。
わたしはなぜかためらいもなくそれを受け取る。
「ありがとう」
「どういたしまして」
「あの川を渡るとね」
彼は目の前の川を見ながら言う。
「向こう側にそれはそれはきれいなお花畑が広がっていてね」
冬枯れの土手には、残念ながら花は咲いていない。冷たい風が吹いて、落ち葉が舞っているだけだ。
と思ったけれど、「見える?」と彼に聞かれたとき、そのお花畑がはっきりと見えた。
「うん、見えるよ」
「そう、よかった。じゃあ、向こう側に誰かがいるのも見える?」
それが誰かはわからないけれど、とても大事な人がいるような気がした。よく見えなくて目を凝らしてみる。
「ダメだよ、目を凝らしたって見えないよ」
と彼は言う。
「じゃあ何を凝らした見えるの?」
「肩でも凝らしてみたら?」
彼は本気なのか冗談なのかわからないような顔をして言う。そして、野菜ジュースをわたしの手から取って、小さな手をわたしの手に重ねた。
「魂を凝らしてみるといいかも」
その刹那、わたしはわかってしまった。
彼は、「彼」だと。
ちょうど一年前、彼は病室で野菜ジュースを飲んでいた。「最後に食べたいものって案外浮かばないものだね」と言いながら、野菜ジュースを飲んだ理由は、わたしと彼が初めてカフェでデートした日、コーヒーや紅茶やカフェインが入ったものが飲めないわたしと「じゃあ同じもので」と野菜ジュースを二人で飲んだから。
「あの野菜ジュースは美味しかった」
それ以来、どこへ行ってもわたしたちは野菜ジュースを飲んだものだ。
そうか、ちょうど一年経ったんだ。
今隣にいるのが彼だとわかって、わたしはとてもあたたかい想いに溢れた。
涙が出なかったのは、もうじゅうぶん泣いてきたからなんだろうと思った。
「来てくれたんだね、ありがとう」とわたしは彼に告げた。彼はただ静かな微笑みを浮かべている。
この時間が永遠であればいいのに、とわたしは思う。
彼が立ち上がって川のほうへ歩き出したとき、お別れだとわかった。
「またね」
どちらからともなくそう言うと、彼の姿は見えなくなった。
※
「おはよう」
聞き覚えのある声が聞こえた。
母だ。
「おはよう……」
「それにしてもよく寝たね」
「え…… 寝てたの……」
「うん、36時間。起きなかったらどうしようって思ったわ。何度も息してるか確認したよ、コーヒー飲んでからずっと寝てるから、普通コーヒー飲んだら眠れなくなるのにね」
コーヒーを飲んだ?
飲めないはずなのに。
「夢に男の子が出てきて、野菜ジュースもらった」
うろ覚えの記憶を言葉にすると、母はびっくりした様子で「あのね、あなたが寝ているとき、あなたの友だちだっていう男の子が来てね、野菜ジュースを持ってきてくれたのよ、名前なんだったかしら、忘れちゃったけど」と言った。
わたしはそれが誰だかすぐにわかった。
誰だかわかったのに、思い出せない。
「その子とたぶんわたし、いつか出逢うと思う」
母は困惑した表情を浮かべたあと、
「そうね」と笑みを浮かべた。
それから「ああ、なんか心配しすぎて肩凝っちゃったわ」と肩をさすった。
わたしはようやく体を起こして、母の肩をトントンと叩いてやった。
「ありがとうね」
窓の向こうに川が見える。
一粒だけ涙が落ちた。