これまでの自分に失礼のないように
僕が教授を務めるデジタルハリウッド大学では、1年を4つの学期に分けている。担当講義の「広告制作」は今日で最後の回となった。内容は、ある課題を解決するアイデアの最終発表会。納得のいく発表ができた学生もいれば、そうじゃない学生もいるけれど。それぞれの成長と失敗に目を細めながら耳を傾けた。
勝つか負けるか。天国か地獄か。明確に優劣がつけられる、という真剣勝負の場に身を置くという経験は、結果はどうあれ人の大きな糧になる。評価が良ければ成功体験の味をしめて自信につながるし、評価が悪ければ悔しさがこみ上げる。特に後者を感じる機会は大人になるほど少なくなる。悔しいって、本気だった証拠だ。当たり前だけれど、みんな僕の課題で1位を獲るために生きてきたわけじゃない。だからそれぞれにとって最高の通過点になればいい。願うように思う。
これまでの自分に失礼のないように。
いつからだろう、コンペや受験のような大勝負に挑むとき、そんな風にして胸の内側で誓うようになった。当日急にレベルが上がることはないし、人はできることしかできない。だからやるべきは実力を出し切ること。誰の目も届かない暗い場所でひっそりとしてきた「これまで」の努力を裏切らないこと。奇跡を信じる浅ましさを捨てるのが準備という行為なのだとおもう。
努力とは、まだ誰も見たことのない未来を、影の部分からくっきり描いていくこと。光の部分は自分じゃつくれない。だからスポットライトが当たる一瞬を夢見て、喉から手が出るほど欲しがって、もがいて、足掻き続ける。その姿はひどく無様で不格好だけれど、他人から見れば格好いいものだ。そうやって声に出して伝えてくれる応援者を手放してはいけない。
学生たちにはあらためて、その大切さを思い出させてもらった。教えることは受け取ることでもあるなとつくづくおもう。
そんな物思いにふけっていたら、たまたまM-1の裏側を取材した動画を見つけて思わず見入ってしまった。(ちなみに4回泣いた。)
ミルクボーイの内海さん(ツッコミ)が、角刈りしてもらったあとに泣くところとか。日の当たらない時間を応援し続けてきた、カフェのおばちゃんや美容師さんの存在とか。かまいたちの濱家さん(ツッコミ)が、相方の肩を揉みながら舞台に臨むところとか。ミルクボーイの駒場さん(ボケ)が、家族が喜ぶ姿を動画で観て涙を流すところとか。おしなべてぜんぶ死んだ。
たったひとりでも、自分が良いと信じる人を、応援し続けよう。強くそうおもう。