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共感の正体

「共感」という言葉を聞くと、かなり慎重になってしまう。企業に共感を持ってほしい、という場合のほとんどは「好きになってほしい(好感)」の意味だし、みんなに共感してほしい、という場合は「すごい!」と褒められたいだけのことが多い。

共感という言葉は懐が深くて綺麗だから、下心や欲望を隠したいときには使い勝手がいいのだろう。かといって、言葉を厳密に使い分けましょう、と言ったところで息苦しいだけなので僕の興味はそこにはない。

ただ、あらためてふと思ったのは「共感とは何か」ということ。その正体について。

しばらく考えて、僕は「相手の中に自分自身を見出してしまうこと」だと思い至った。

たとえば僕は、"子どもらしく生きられない子ども"の姿にとことん弱い。『万引き家族』のラストカット、ベランダでひとり遊ぶ女の子の姿とか。『千と千尋の神隠し』のクライマックス、千が電車に揺られる姿とか。ああいう、本来ならしなくて済むはずだったやせ我慢をして、し続けて、そのうち我慢していることにすら気づけなくなって、無駄に強くなってしまった子どもの姿を見るとどうしても泣いてしまう。

それは決して同情ではなく、きっと僕もむかし同じような経験をしてきたからだろう。彼女たちの中に自分自身を見出した瞬間、彼女たちの切実な感情が一気に僕の中へとなだれ込む。そいつが僕の当時の感情を蓋した間欠泉へと命中。透きとおった感情が涙となって溢れ出す。

涙の成分にはきっと、「誰にも見てもらえなかった僕を見つけ出してくれてありがとう」という、感謝にも似た気持ちが含まれている。だからその感情に浸るのはどこか気持ちがいい。涙まで溢れ出すかは別として、共感のメカニズムとはそういうものなのかもしれない。

と、ここまで考えてみて思うのは、どうやら人はどんどん共感が下手になっているらしいということ。特に都会に住む僕みたいなやつは。

今日、満員電車で後ろのオッサンから急にカバンでどつかれた。怒りのエネルギーがこみ上げたし、朝から余裕のない輩だなと心の中で悪態もついたのだが、今になって思い返すと自分も寝坊して乗り換えに焦っている時はああなることがある。その余裕のなさにしみじみと共感する。つまりオッサンの中に自分自身を見る。

たったそれだけのことで、相手が自分とまったく無関係の生きものだとは思えなくなる。攻撃的なエネルギーは失われ、か細くとも一本の線で互いに結ばれる。そういう種類のつながりが、どんどん失われているように思う。

その背景には、資本主義のせわしなさや評価主義に加えて「多様性を大事にしよう」という時代の流れもあるように思う。人は違って当たり前、みんな違ってみんないい。それを推奨していくことは、つまるところ、「他人とはわかりあえない」という感覚を育てることにもつながっている気がしてしまう。

今回の記事は特に結論はないです。なのでついダラッと歯切れの悪い文章を書いてしまった。どうやら僕はとにかく不安らしい。こういう気分の時は、手触りのある人や事に目を向けて、大切にできるものを大切にすることに集中するのがいいね。

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