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「笑わせる仕事なのにわたしを泣かせるのね」と、芸人の母は言った。

毎年M-1を楽しみにしているのだけれど、ある意味それ以上に楽しみなのが「M-1 アナザーストーリー」。お茶の間で呑気に爆笑している僕たちの裏で、芸人さんたちはあの舞台にどう挑んだのかを追いかけるドキュメンタリー。「M-1史上最高の戦い」と呼び声高かった昨年の舞台裏にも泣かされたけど、今回もやっぱり泣かされた。

お笑いに限らずこうした賞レースは、前年度で何が評価されたのかの影響をもろに受けると思っている。ミルクボーイの正統派漫才が一世を風靡したのが前回大会とするならば、今大会の決勝に進んだ「マジカルラブリー」と「おいでやすこが」の2組は”ひたすら暴走するボケをツッコミが諭す”という、亜流ともいえるスタイルだった。

ボケとツッコミの相乗効果こそ漫才、という個人的な漫才観はさておくにしても、この2組は「自分たちは亜流」という自覚がある。おいでやすこがはピン芸人ユニットということで必然性があるにしても、マジカルラブリーはなかなか芽が出ず、やっとの思いでたどり着いた2017年決勝では上沼さんからケチョンケチョンにこき下ろされた。それでも自分たちの信じる「おもしろい」を曲げず、亜流と評価された漫才をひたすら磨いて優勝をもぎとった。そのドラマに、普遍的な真実を突きつけられる。

それは、周りから評価されないのは「間違っているから」ではなく「ただ磨き足りていないだけ」ということ。自信を持てるレベルまで達した表現を否定されると、自分は何か根本から間違っているのではないか、と人は疑心暗鬼に陥ってしまう。もうこれ以上はやれない。そこまで磨いたものを否定されたあとに、どれだけ踏ん張れるか。止まない雨はないし、明けない夜はないけれど、土砂降りの真夜中をどこまで走っていけるか。残酷だけれど、限界まで伸ばした指先の数ミリ先に栄光は転がっている。

頼れるものがもう何もない。そこまで追い詰められたとき、最後のよすがとなるのは自分の信じる「いい」しかないのだ、とつくづくおもう。手放したくても手放せないもの。これをとったら自分には本当に何もなくなってしまう、という魂のかたちそのもの。頼りないそれだけを頼りに、もう一度自分を分子レベルにまで分解し、すべての可能性にがむしゃらに飛びついて、もがき切る。その悪あがきは自分のど真ん中で勝負している人間にしか許されない。

笑う、というのは人の根源的な快楽だ。それを求めない日がきたとしたら、それは人が人でなくなるときだ。そのチカラに惚れ抜ける魂のかたちを持っていることが無性に羨ましい。

翻して。自分はどうだろう。僕はおそらく”真実に用事がある”人なのだと直感的におもう。人の心や考え方に興味が尽きないから広告コミュニケーションという分野にたずさわり続けているし、人があらがえない(もしくは信じたい)真実をみつけ、思い込みを壊すことに快感を覚えるから企画をする。

でも本当は、広告や企画じゃなくてもいいことに気づき始めている。たとえば考古学や文化人類学といった人間を扱う学問が好きだけれど、過去の歴史から人間の真実をひたむきに探し続ける生き様への異様な関心を持ち始めている。だから今年は一年間、通信大学やオンライン講座を真剣に受けてみてどこまで人類学に執着できるかを確かめたいと思っている。ミルクボーイやマジカルラブリーがお笑いに執着し続けた強度で惚れ抜ける予感を感じたときは、広告業界から足を洗うときなのだろうなと知るように思う。

さて、地殻変動は起きるのか。予測不能な未来をひそかに楽しみにしている。

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