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二度と戻らない渡り廊下の日々

昨日から学校を貸し切って、ある企業のCM撮影を行っている。独身男性としては、こういう機会でもないと学校に来ることはまずない。出演する高校生たちの甲高い笑い声が廊下のすみずみにまで響き渡っていく。

僕はなんというか、学校だとか学生時代というものにとことん弱い。下駄箱のひんやりした空気。階段の奥から聞こえてくるひそひそ話。黒板消しの匂い。机の落書き。窓際の一番後ろの席から見る入道雲。あの頃の根拠のない希望や不安やけだるさが、至るところに降り積もってはキラキラと透きとおっている。その眩しさにやられてしまう。

僕の高校の渡り廊下は途中途中がくぼんでいて、そこがベンチのようになっていた。3年6組の前のベンチ。そこが僕らのアジトだった。休み時間や放課後になると、特に用もないのに誰からともなくそこで落ち合っては延々と無駄話をしていた。

何をそんなに話すことがあったのだろう。二度と戻らない渡り廊下の日々。

ある日、英語担当の木下先生が僕らの前を通りがかった。細身で小柄なその先生は、流行りの若者言葉でいつも無邪気に話しかけてくれるから好きだった。彼女は僕らを見るなり目を細め、いたずらっぽく睨んだあとにふとこぼした言葉がある。

「あ〜あ、うらやま。」

嫌味っぽさはあっても卑屈な響きはなかったから、いつものいじりかと思って当時の僕は適当に笑い飛ばした。それでも、その言葉が妙に心に引っかかっていた。そしてその答えらしきものが、目の前の高校生たちを見ていて突然腑に落ちてしまった。

たぶん、本当にうらやましかったのだ。悩みや不安など何もなさそうな姿にではない。特に理由がなくても、暇さえあれば自然と集まれる仲間がいることに。

人は大人になるにつれ、誰かと会うには何か理由が必要になっていく。会議に相談、旅行にショッピング。何か理由をかこつけないと集まらないし、でないと話しかけることさえなくなっていく。それは少しさみしいことなのかもしれない。はしゃぐ学生たちを眺めながらぼんやり思う。

彼らの間にはまるで磁石があるみたいに、手持ち無沙汰になるとひとつの方向に引き寄せられていく。そこには理由はおろか、言葉さえない。そういう場所がいまの自分にはあるだろうか。理由なんてなくとも、「おい行こうぜ」と声をかけてくれる人はいるだろうか。

そういう渡り廊下みたいな場所がないから、いま大人たちの間ではスナックや○○横丁がブームになっているのかもしれない。そんな風に主語を大きくすることで自分を包んで誤魔化しながら、なんとか素面で撮影を乗り切っている。

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