心の理論を心の白杖で乗り越え
私は、多数派の人々に比べてロジカルに考えて行動していく力が発達しました。
人間には、代替機能の発達という現象があります。人間の体のある部分が何らかの理由で失われたり、十分に発達しなかった場合、ほかの部分が補完的に発達してそれがかなり大きな代替役割を果たすということです。
身体障害の場合、失われた手は二度と生えて来ませんが、その代わりに手以外の色々な部分を使ってモノを自分の身体に吸い寄せる機能が発達するようになります。視覚障害により目が全く見えなくなった場合、周囲の音を便りにして行動する力や、物を触って判断する力が格段に発達するようになります。(ただし、視覚障害の人全てがそうではありません)
私は、脳の一部分の機能にバグが生じて「判断A」という目的地に行くべき場面で、その正規ルートが使えなくなったために、途中で思考停止してしまったり、全く別のルートを通って「判断B」という場所に行ってしまう状態になっていました。
しかし、ここは何としてでも「判断A」に辿り着かなければならない。そうしないと生き残れない。そんな状況に置かれると、別の脳の部分が発達して、使えなくなったルートに代わるバイパスができます。そうなると、健常な人が直感で「判断A」に辿り着くところを、時間はかかるが推論を働かせるというバイパスを通って同じ「判断A」に辿り着けるようになる。
ただそのバイパス作りには、絶えず頭と心と体の試行錯誤がいるのも事実。私は生きるためにそのような試行錯誤をする必要性に迫られているということです。
ある時、私は視覚障害の人を駅までお連れすることがありました。それを見ながら、思い浮かんだことがありました。
彼らは歩く時、手にした白い杖を回しながら、辺りに障害物がないかを確認する。白杖が何かにぶつかって、そこには壁があるとわかると、彼らは立ち止まったり、歩く方向を変えたりする。それを繰り返しながら目的地にたどり着く。
私はこれを解説する時に、食卓のテーブルの上で、白いストローを手にしてそれを白杖に見立て、皿やコップを障害物に見立て、手を動かしていく、という実演をします。
まず、目の前の皿にストローの先が当たります。そこで左上に方向転換して、手を動かします。次にストローの先が左にあるコップに当たります。そこで右上に方向転換して手を動かし、グラスと皿の間をくぐり抜けます。
このことから、言葉になりにくい私独特の感覚を説明するいい言葉が浮かびました。今日の私は、「心の白杖」を持って歩いています。
「心の理論」という心理学用語があります。 健常児が4歳ごろから理解できる「他人の心の状態」を、自閉症者は成人しても理解しにくいという問題から、自閉症などの発達障害とは「心の理論」が欠如した障害、と言われます。
しかし他人の心の状態が「見えにくい」私たちも、「心の白杖」でそれを確認することができるようになります。この世界を認識する脳の構造が多数派と違う私には、「これをやるとぶつかる」という結果が「見えない」ことが多いです。そこで頭の中で推論を働かせて、先に何があるかをひとつひとつ確認しながらこの世界を渡って行くのです。電車で席に座ったら、「音楽を聴く」「本を読む」「隣の人とお話しする」この中から、静かに過ごせる道を選びます。
多数派の人々はこういうことはしていないでしょう。見えているのにわざわざ杖で障害物がないか確認しながら歩く必要がないのと同じように。けれども私がこの方法を知らないで生きていくことは、視覚障害の人が白杖を持たずに歩くのに等しいでしょう。
このことから私は、多数派の人々に比べてロジカルに考えて行動していく力が発達しました。
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