【コラム】「本」はきっと、教養という要素を取っ払わなくてはならない。
本が売れないと言われる昨今、出版は完全なる斜陽産業と化してしまった。
確かに本というのは、「めんどうくさい」ものである。
映画や音楽などを楽しむ時は受身でいられる。さほど集中していなくても、勝手に進んでいくから、観終えた時に「ああ、よかったな」と思えたりもするが、本は自らのアクションがなければ先に進んでいくこともないし、ちゃんと集中して読まなくては話が理解出来ないから、つまらなくなってしまう。
それは正に「めんどうくさい」である。
昔は、「本を読むという教養」があったから、皆本を読んでいた。
もちろん今のように、他に多くの刺激がなかったことも多分にあると思うが、いい大学に行きたいなら本を読め、という風習があったという。
さて、今はどうだろうか。
本から得られるものは、おそらく昔とさほど変わっていないのではないかと思う。
しっかりと読めば教養が得られると思うし、知識も増えることだろう。
しかしその「読むことが教養」というのは、少し硬い印象がある。
本を読むことが、教養になるというイメージは一度払拭してもいいのではないかと思うけれど、それは実際なかなか難しい問題である。
例えば、教科書は本である。
僕たちは子供のころ本を使って勉強をするから、勉強が嫌いな子は、本を開くことさえ嫌になってしまうかもしれない。
これが例えば本を使わず映像による勉学であった場合、もしかしたら映像を観ることが、ただ単にそれだけで嫌になってしまう可能性もある。
だからその「教養」のイメージを払拭するには、教科書というものの形態をなくしていかなければいけないのかもしれない。
これはあくまで一つの仮定に過ぎないので、だからどう、という訳ではない。
「本」というものは、そういった意味でお硬い。
本を読む姿が、教養を彷彿とさせるのも一つあるのかもしれない。
スマホでゲームをやっている人をみて、「あの人頭良さそうだなー」とは思わないものである。
だから僕たち人間には、知らずの内に「本」というイメージが、とても深いところに根付いてしまっているのだ。
そりゃそうだ。子供の時からそのように育っているのだから仕方ない。
それが原因で本を手に取らない人が、少なからずいると僕は思ってしまう。
ただ単に活字を読むことが嫌いな人もいるだろうけど、そういった根本にあるイメージが本に対する拒否反応を起こしてしまうケースだって多少はあるのではないだろうか。
それはとても勿体ないと思う。
もちろん「本」と言っても様々なものがあるけれど、少なくとも小説はそんなにお硬いものではない。
エンターテイメントだ。それはソーシャルゲームと変わらないし、コメディ映画とも変わらない。映画を観るように受動的ではなく、こちらから読み進めるという能動的な動きとしては、人との会話にも似ている。
「本」に硬いイメージを持たないで欲しい。
「本」はそんなに大したものではないし、今となっては誰でも作れるものだ。
確かに出版の流通というのは、日本独自の特別なレールが出来上がっているのだけど、このインターネット時代には、それさえ関係なくなってきているのではないかと思う。(実際は、出版に敵うというのは相当難しい問題である)
「本」は娯楽だ。
「本」を読むことと、「昼寝をすること」に、なんの違いがあろうか。
■古びた町の本屋さん
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