逃避行ヘッダー

『短編小説』第2回 逃避行 /全6回

 大体、朝の鳥の鳴き声で毎日目が覚める。夜更かししている割には、随分と早い起床だが、どうにも鳥の声が気になって目が覚めてしまう。昔からそうだった。俺は神経質というか、音に限らず周りのあれこれに神経を尖らせていた。おかげで人間関係なんて昔から下手だった。だからこういう生活に成るべくしてなった人間だろうと思う。だからといってこの生活が自分に合っているのかどうかもまた微妙な問題だった。この生活は人と雑音があまりに密接過ぎる。常に何かの音にさらされて、俺はいつだってげんなりした心持ちだ。おかげで毎日寝不足で、窪んだ目つきはより一層俺自身の空気を重く見せていた。毎日夜も更ける頃になると、こうなってしまった原因は何にあるのだろうかと考えてみるがその明確な理由など見つかりはしなかった。妻と子供を捨てて逃げてきた自身への、神様からの天罰としか思えず、俺がどう足掻いたところでそういった運命だっただろうと意味もなく納得した。
「おい、エー行ったか?」
近隣に居を構えていた他のホームレスに朝から声を掛けられる。
「いいや、行ってない」
「ああ、そうか。それなら俺が今から行くから」
エーとは、A地区のことであって俺らの中だけで通じるある一定の区域のことだった。ホームレスの世界はこういった縄張りの意識が非常に強い。他の島を荒らしたとかでピストルが出てくる程の争いは決して起きないものの、暗黙の了解の中で自分が行けるある一定の区域外には行こうとはしない。皆別に抗争を起こしたい訳じゃない。出来ればただ静かに暮らしていたいのだ。
「ところでお前、なんつったっけ?」
「え?ああ、篠原です」
「篠原?お前まだ浅いだろ?このへん」
「このへんといいますか、この生活が浅いです」
「何かあったら聞いてくれよ。俺の家、ここ真っ直ぐ行って右に折れたところにあるから。でかいブルーシートの被ってる家だよ」
「……ああ、はい。ありがとうございます」
彼は権蔵(ごんぞう)という名らしい。本名かどうか疑わしいが、今はそれで通っているのであればさして大きな問題でもないだろう。この辺りのホームレスからは「権蔵さん、権蔵さん」と言われて慕われているような存在で、まだまだ日の浅い俺にも割と良くしてくれていた。いつになっても名前を覚えてはくれなかったが、たまに顔を合わせると「なんでも聞いてくれよ」と言ってくれるのだった。右も左も分からない俺としては随分と有難い。
 家とも呼べない代物から出て伸びをした。まだ早い時間だろうが、朝からランニングしている人が何人もいる。ただ目的もなく走る行為にどんな楽しさを見出しているのか、俺にはさっぱり気持ちが分からない。……おそらく、俺が逃げ出したのもそれが原因なのかもしれない。至って普通の、至ってありふれた家庭だった。裕福でもなかったが、貧困という程でもなかった。中の下とでも言おうものならその言葉が一番しっくりくるように思う。昔は良かった。常に何か目指すべき場所があったし、そこに向かって精進している内は自分が生きていると強く実感出来た。ただある時を境にそれは突然落ち着いてしまうのだった。子育ても一段落して、仕事もただの繰り返しの日々。妻との関係も悪くはないが、決して良くもない。休日に一緒に出掛けることなどほとんどない。そんな変わりばえのない生活の中で息詰まった。それを羨む人もいたが、俺にとってはそれが毒だった。何の害もない、平穏な日常。それはどこかただ意味もなく自分の首を絞めつけていく行為のようにも思えたのだった。それに引き替え今の生活は常に安定していない。いいや、ほとんど毎日何もなく過ぎ去っていったが、俺はまだ自分のこの状況にさえ慣れ親しんでいなかった。いつかこれが普通になって、また自分はその状況から逃げ出していくのだろうか。そう考えられなくもないが、いずれにせよ、今はここに満足している。前の生活に比べれば、今はまだこっちの生活の方が随分と居心地が良かった。

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