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【コラム】人によって違う「読書のスタイル」

 先日面白い記事を見つけまして『ほんと人によって違うよなって思う「読書スタイル」』既に当たり前のような話ですが、改めてこうして記事で読むと面白かったので今回はこれに関してちょっと書いてみようかしら。

 「読書」と一言に言っても、人それぞれその”読み方”が異なってきますね。ざーっと書いてみると、

 ・キャラクターの容姿を事細かに「描き出す派」と「描き出さない派」

 ・物語の映像を脳内で「想像する派」と「想像しない派」

 ・主人公に「自分を重ねる派」と「自分を重ねない派」

この記事で書かれていることはおおよそこれらのことに関してですが、皆様はどんな「読書スタイル」をお持ちでしょうか?

 個人的には、キャラクターの容姿は「描き出さず」、物語の映像は「想像して」、主人公に自分は「重ねません」。

 ただ頭の中で文章を「音読」している節はありますので、そのキャラクターの声はなんとなく想像しているような気がします。しかし主人公に自分を重ねないせいか、「感情移入」することはあまりないように思います。どこか少し俯瞰して見ているというか、物語の中に入り込んで一員となっているというよりは、やっぱりちょっと離れた場所で「我関せず」スタンスで見ているようなことが多いでしょうか。

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 記事でも書かれていますが、「小説は想像の余地があるから面白い」という意見。アニメなどだと映像や音楽があらかじめセットになっていますから、与えられる情報が多い分見ていて楽なんだけど、想像の余地は狭まる。その点小説は情報が活字というだけで極端に省かれているので、想像出来る範囲が広がるというもの。

 僕はこの意見に結構賛成だったりします。記事の筆者は「反対派」のようで、プロである以上結末を見せるべきで、「読者に委ねる」というのは言い訳である、という意見です。

 まあ確かに……。と思う部分も大きいですが、僕は余地があった方がいいかなーっと。答えを与えられないことに喜びを感じるのではなく、その中途半端加減の中にある「余韻」が僕は好きなのだと思います。小説に限らず映画でもそういった「事象」のみを描く作品を好んで観ていますので、完璧に「趣向」なのだと思います。

 「事象」を描くという点では、村上春樹さんもそういった作家なのではないかと思います。事実、「起承転結」が大好きで普段ミステリーなんかを漁って読んでいる友人らは、「この前、村上春樹を読んだけど、結局最後何が言いたかったのか分からなくて不満」「話が終わった感じがしない」という感想を述べます。

 まあこれも一つの感想でしかありませんので、あれだけ読まれている作家と言われていて、実際に発行部数も半端ないと思うのですが、誰しもにハマるわけではないのですね。……当たり前か。

   *

 最後の「最高がいい?」「毎日がいい?」という例えは面白いものでした。

 著名作家の名作を読む(最高を読む)か、noteなりで素人の小説を読むか(毎日読む)、という比較をしていまして、これも両者かなり意見の割れるところなのではないかと思います。

 今後の作家のあり方として、「名作を半年に1本出していくスタイル」から、「1週間に1本でも記事を発信し、継続していくスタイル」に移っていった方がいいのではないかという意見もあります。

 というのもここまでスマホが普及したことにより、皆がいつでも簡単にブログなどの記事にアクセス出来る部分が背景にはあるようです。今後作家は、こうしたスピーディで継続的な発信が必要とされるのではないでしょうか。

 さて、皆様の「読書スタイル」はどうでしょうか?



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