遺品整理で元小学校教諭の祖母からのメッセージに出会った(1)
どんな素晴らしい先生に出会っても、私にとって1番のロールモデルは実は祖母です。この写真は2018年のものなので99歳で亡くなる3年前。少しだけぼんやりすることはあったものの、トイレや食事など日常的なことは自分でできました。
さらに、衝撃だったのは教育の話をすると目がシャキーンとすることでした。(あかん、書いていて泣いてしまう。それくらい好き。)
祖母の人となり
江藤家には先生と名のつく人は小学校教諭だった父方の祖母、大学教授の父、そして高校教諭の私と3人しかいないのですが、実は祖先について聞くと、学校の先生をしていなくても寺小屋のようなことをしていた人が祖母の方には結構いたそうです。
直系のこの3人はとても似ていて、何せ気が強い。ものすごく強い(笑)祖父は祖母の父親が「虎のような目をしていて、酔うと斬ったハッタの話しかしないので怖かった。」と生前言っていたくらいでした。一方で困っている生徒には救いの手を差し伸べて支援するというところが同じです。戦争直後で何もない時代、祖母はお金に困っている子をこっそりと助けていたと言います。その後呉服屋になって裕福になった方から私も子供の頃よく呉服などをもらいました。
亡くなる数年前の話から
ワークライフバランスは常に…
2018年、99歳で亡くなる2年前の元旦に祖母と話していたビデオが出てきました。その日、他の先生たちは知っているから心配していたらしい。
校長先生も「はよ帰り、見合いの日やで。」
どうも普通にその日も仕事をしていた祖母。見合いの場に行ったら親戚一同並んでいました。昭和19年のこと。祖父は兵役から3年を経て帰ったばかり。国民服を着ていました。
実はお見合い前に二人はすれ違っていました。魚を買いに行く若き日の祖父と行き違う。何も考えずわあわあ喋る若き日の祖母。
「なんとよう喋るおなごじゃな。」と祖父は思ったそうです。
見合いだろうが結婚式だろうが、常に仕事が一番だった祖母でした。私自身も結婚前の2ヶ月は部活が忙しくて休みが3日しかなく、帰宅は22時、晩ご飯を眠りながら食べて23時半、翌朝また早起きして行っていました。結婚式の準備に割いた時間は多分10時間にも満たず。それがいいか悪いかというよりそういう気質なのでしょう。
自分で決めたことだから
働くことも、当時田舎では珍しい職業婦人として両立することも大変なこともあったでしょう。でも、祖母は言います。
祖父母は現役を引退してからは世界中を旅したり、私たち従兄弟たちを夏中預かって勉強・遊びを教えてくれたり。お互いに文句をいうのは聞いたことがありませんでした。もちろん裏では言っていたかもしれないけど…
たまたま私の子どもも6才差。保育所の免除が0円だったりと金銭的には大変でしたが、中3と小3になった今は比較的落ち着いて暮らせています。
祖母の時代は、お姑さんがご飯を作ってくれることが多かったと言います。3学期とか切羽詰まってくると自宅で仕事をしていて、ご飯になると呼ばれる。そうすると、近所の親戚は色々と祖父に言ってきます。職業婦人は何もしない。あんな嫁はない。
ですが、祖父は一切それを祖母に言いませんでした。出張に行くたびに祖母に買ってきたアクセサリーは数知れず。優しくて働き者の祖父は95才まで畑仕事やボランティア活動に精を出していました。
最後に祖母からのメッセージです。
自分が決めてここに来たんだから
優しくやれば向こうも優しくなる
堪える道を覚えないとね
何もかも我慢しろというわけではありません。でもお互い優しく。それは仕事の上でも同じ。優しくいたいなあと思います^^
遺品整理で見つけた小箱の中から出てきたもの
長くなってきたので、記事を分けて書きます。2022年の年末に大分の実家で遺品整理をしていたときに出てきた小さな空き缶を開いた時の衝撃です。では次の記事でお会いしましょう。