YouTubeビデオを生徒のために作る理由は教えるためじゃない
このところ時間はあるのにオンラインに追われまくって燃え尽きてました。江藤です。世間では先生たちが先を争うように動画を作っているのを馬鹿にするような発言もあり、違和感を感じています。目的は何なのか。
現在の江藤の授業形態
オンラインの授業には同期型のライブ授業(双方向、一方向)と非同期型(Google ClassroomにYouTube動画とテストなどを配信)があります。現在は非同期型を中心にするクラスと、同期型を中心にするクラスで分けています。どちらにもYouTubeビデオは出していて、週に合わせて10本ほど。10分前後の動画で、バリバリ文法から一緒に作ろ、みたいなものまで色々です。ある日のライブ授業後、欠席者向けに作ったダイジェストもこの程度、手の込んだものは作りません。
あとは、朝はカトリック校なので30秒程沈黙の時間を取ったら、主の祈りをし、終礼はテキストのみ。絵文字三つで1日を表そうという程度のさっぱりしたものです。
4月頭:ひとまず初心者向け動画作成
入学式前の4月頭のこと。校長先生から呼ばれて、明後日研修よろしく!と頼まれたのが副教材を下に置いてスマホで撮りながら説明している動画を撮るというものでした。個人的にはやらないパターンですが、これ以上簡単な方法はないし、授業で副教材中心にやってこられた先生に突如別のことをさせるのも難しいので研修で説明しました。総勢60名がスマホ片手に悪戦苦闘。しかし翌日には小学校の先生からPPTで作る方法を学び、現在では大半の先生が作れるようになりました。
自分で作成する目的:かゆいところに手が届く
それぞれ個性的で素敵な動画なので、もちろん使い回しはできます。YouTubeには一流と言われる人の動画もたくさんあります。ただ、わたしがそれらを多用しないのは自分の描く絵にしっくり来るものが少ないから。例えば文法だと、文型や動詞の役割をかなり最初に詳しくやるのが自分のスタイル。主語の定義はきっちりやりたいし、3文型(と言う言葉は使いませんが)では準動詞を使ったものまでやりたい。5文系でも、そう。
こうなると、かゆいところに手が届く動画は自作に落ち着きます。借り物の言葉ではうまく説明がつかないし、定義や使う表現は統一しておきたいのです。
この記事にあるように、「資質・能力」に着目するというのも意外に忘れられている視点です。やはりこれも「何のため?」ですね。
自分で作成する最大の目的:Student Rapport形成のため
ケンブリッジのオンラインコースを強制的に受けさせられていた時のこと。一つだけ心に残った言葉がありました。それがRapport。日本語にしにくいのですが、生徒とのつながり、信頼関係、ポジティブな感情というところ。動画では、この人と学んでて楽しいかも、ちょっと休校明けが楽しみと思ってくれたらいいなと思って作っています。
本校の英語科の先生たちの大半はこの路線で、現に最初の動画では顔を出して(すごく彼女たちにとって勇気のいることだったと思います!)授業内容や使う教材について話をしておられます。これにはかなり驚きましたが、本当にいいことだと思います。
大事にしている二つのこと
失敗を楽しむことと、持続できる範囲に留めること。この二つを大切にして動画を作っています。設計や環境はプロではないし、全然うまくいかないこともあります。でも、有名なYouTuberだって最初の動画は「あれ?」みたいなダサさだったりするわけです。悩むよりやってみること。そしてちゃんと意見を聞いて振り返って改善していくこと。これができれば十分です。
本校の先生には一本当たり30時間!という先生もおられます。もう頭が下がるのですが、これでは疲弊してしまいます。(じゃー、どうするねん!は置いておいて)わたしの場合は作り始めた7年前から同じ。
↑これは7年前のものですが、7分の動画を作るのにかける時間は14分。今でも実際の時間の三倍以上はかけないことにしています。荒削りですが、持続させることが最優先です。
さいごに
常に持っておきたいのは「誰のため?何のため?」という視点です。例えばこんな言葉もFaceBookでよく聞きます。「YouTubeを限定公開にしてもリンクは貼れて誰でも見れる。拡散されたくない。だから自分は動画をそのままGoogle Classroomに上げています」なんら悪いことではありません。
しかし、それがかなり重い動画だったら?拡張子によって開かない場合もあったら?そもそも拡散するのだったらスクリーンショットを生徒は取りますし、リンクなんて貼りません。面白半分でするならわざわざそんなことしない。目的の認識がずれているわけです。
常に目的を意識し、見ている人ファーストで、かと言って燃え尽きずに動画を使っていきたいものです。