理性という本能

 人間の殆どは本能の奴隷で、頭で物を考えている人間など存在せず、大抵は「本能で決めた事に後から理由をつける」だけである。自分の意識的には「ちゃんと考えて行動している」が、しかし、実際には「本能に操られている。しかし、あたかも操られていないかのように自分を騙している」のである。
 これは基本的に「意識は本能に従属する」ものであるからだ。まず人間の行動というものは本能が決める。そして意識は本能のために言い訳や理屈を即興で作り出す「助手」である。
だから多くの人間は「自分は考えている」と主張しながらも、実際は自分の本能に逆らえず、弱い行動をして負けるのである。そのあたりを観察しやすいのは、ゲームの個人の上達速度差である。ごく一部のプレイヤーは、強い行動をすぐ覚えてアッと言う間に強くなるが、大半のプレイヤーは本能的に出てしまう弱い行動をやめられず、何百時間プレイしてもずっと弱いままである。
「頭では分かっているが」というやつだ。

頭では分かっている(意識)
しかし手が動かない(本能)


意識を本能が押さえつけているのである。この状態の人間は、日常生活でも同じように本能に支配されているため、実質何も考えてないのと同じ状態だ。
人間という生き物は、何かを考えて実行するために、本能と意識の主従関係を対等以上に変化させねばならない。
つまり「頭では分かっているが体が動かない」を「頭で分かったので体も動く」にする必要がある。だがしかし、これが済んでいる人間はあまり多くない。
「迷惑な広告」とか「不快な広告」が存在する理由もそこにある。
多くの人間は「こんな迷惑な広告で成功するわけがない」と頭で考える。しかし広告のターゲットは彼らの意識ではなく本能である。
広告によって刺激された本能は、彼らの意識を無視して、彼らに広告主に有益な行動を取らせる。
そのため不評な広告であっても、売上統計を見ると、きちんと広告分だけ売上が伸びている。不気味ではあるが、広告とはそういうものだ。
「不快だと分かってはいるが、体は広告主の思い通りに動いてしまう」のが広告である。
「人間はこうである」という主張に対して「自分は違う」と主張する人間は大勢いるがその大半は「意識が勝手にそう思ってるだけ」であり、口ではあーだこーだ言うが、行動はしっかり人間の本能に即したものであり、あらかじめ予測された通りにしか動かない。

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