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『Ryuichi Sakamoto | Opus』
1/17に『坂本龍一 | Birthday Premium Night 2025』のうちの第一部、『Ryuichi Sakamoto | Opus』を観たので少し感想を残します。
映像で紡がれた身体の拍動
一曲一曲、音を絞り出すような情念がこもっているのが、映像から分かった。片腕が空いた時はもう片方の腕から出される音をその場に導くように、指揮者のような動きで音を絞り出す。第二部の『CODA』で坂本は「減衰しない音への憧れがあるのかもしれない」とも言っていたが、憧憬を抱いたからこそ一音一音の響きや軌道を、身体で確かめながら音に息を吹き込んでいるようにも感じた。そうして丁寧に丁寧に紡がれていく調べに聴き入っているうちに、こちらも「日頃聴いている曲の一音一音がこんな風に並び、構成されていたのか」と音に出逢い直すような鮮やかな体験になった。
Opusの演奏中では、折に触れて身体が起動していく感覚を確かめながら弾いている様子があったが、中でも『Tong Poo』では自身でもその感触に納得しながら、ノっているような軽快さを感じた。その音色からはもちろんだが、『Tong Poo』の展開の緩急、キレのある脱力の妙に酔わせてくれるリズミカルな洒脱さは、映像の力によって倍加されていたのかもしれない。
エンディング前の一曲、『Merry Christmas Mr. Lawrence』の冒頭では、全ての焦点を「いま、ここ」の演奏に当てているのが確かに分かるほど気迫のこもらせていた一方で、曲が進行するにつれて、どこか喜悦に浸りながら音を紡ぐような姿も見せてくれた。こうして演奏する上での精神の反映も映像として受け取ることで、録画映像でありながらも、「演奏者としての坂本龍一」に接近する、さながらライブ形式のコンサートのようだった。
消えていく音が残すもの
特に『Aqua』を聴いているとき、情緒に満ちた、全てを包み込むような情念の神秘に立ち会っているような心地がした。『Aqua』の音色は、音の形をした情念そのもののようだった。あまりに美しく、情愛に溢れた響きだったので、「今、人生のエンディング曲を聴いているのだろうか」と思えるほど恍惚としていた。
最近読んだ小津夜景と須藤岳史の往復書簡である『なしのたわむれ 古典と古楽をめぐる手紙』に、「演奏されている音楽そのものは消失していくけれど、聴く人の中に何かを残して、何かを閃かせて消える。」といったニュアンスの一節があったのだが、確かに教授の紡ぐ音色は私の側に際限のない美を閃かせてその場(瞬間)から消失していったように思うし、その後も私が体験した温かなイメージは私に残り続け、思い出すたびに情緒が反響するのが分かる。
最後に
教授の演奏する姿、カメラワークの光るモノクロの映像美に浸るうち、何か普段私たちの住んでいる世界とは純度からして異なる世界にいつの間にかいざなわれているような心地だった。坂本龍一の誕生日であるこの日に、この会場でOpusを鑑賞できて本当に豊かなひとときだった。