今年も戦いの季節
春一番が吹いた数日後。
出勤準備をしながら片手間に聞いていたニュースの中でなんだかとんでもなく不穏な言葉を聞いた気がした岸裕輔は、玄関ドアの内側で眉間に皺を寄せていた。足元には彼の飼っている子猫が二匹、まとわりついている。
夜はまだ随分と冷え込む日が多いが、昼間は昼寝をするには絶好な陽気。そろそろあの嫌な奴が来る時期だとは頭の隅でわかってはいたが、認めたくない気持ちの方が強く同僚たちとの会話の中でも避けて歩いていた。
(………やっぱりか?)
この世の終わりのような溜め息をひとつ落とし、自分でも笑い出したくなる程ゆっくりとドアノブに手を伸ばす。しかし寸前で手が止まる。肩越しに壁掛け時計を振り返れば、残酷な現実はそろそろ八時になることを伝えてくれていた。出勤時間は八時半。多少の渋滞があっても三十分で職場に着けるとはいえ、もうタイムリミットだ。
先程より重い溜息を落とし、その場に荷物を置くと徐に靴を脱ぐ。子猫たちが不思議そうな顔で後を追ってくる。その音を聞きながらリビングに戻った。真っ直ぐに壁際に置いたチェストに向かう。中段に置いている大きめのケースを取り出た。それは市販薬をまとめて入れてあるものだ。薬の種類毎に並んだ箱は、几帳面な彼の性格をよく反映している。
その中から使い捨てマスクの箱を手に取った。一枚を取り出してゴムを耳にかけ、鼻の形にワイヤーを曲げる。そして零れるのは更に重さを増した溜め息だった。
(わかってる。流石にわかってるぞ、俺。ハンパな付き合いじゃないからな。わかってるが………行かなきゃならないんだよ)
自己暗示をかけるように言葉を胸中に落とし、同じ箱の中から専用の眼鏡を手に取る。徐にそれをかければ気分だけは戦闘モード。
そしてクローゼットのある寝室へ向かうと、中から薄手のネックウォーマーを奥の方から引っ張りだした。頭からかぶりシャツの襟から首の付け根までの境目をなくすように肌を覆う。
これで今すぐにできる対策は全てだ。一年振りの彼らとの再会だとはいえ、最強の相棒がケースの中にいなかったのはどうにも心許ないが、仕方ない。仕事帰りに今年にぴったりの相棒を探しに行くことに決めた。
子猫たちにはいつも通りの時間で帰ってこられないのは申し訳ないが、彼にとってはこの季節を乗り越えられるかどうかの最重要問題だ。ご褒美メニューで納得してもらうことにして、ようやく彼は玄関に向かった。
通りかかったリビングの時計を覗けば、既に十分が経っている。今日はお決まりの出勤ルートは諦めて裏道を駆使しなければならないだろう。それでなんとか遅刻は免れそうだ。
そんなことを考えながら辿り着いた玄関で、一度ゆっくり深呼吸をする。靴を履き、意を決したように荷物に手を伸ばした。肩から掛け、靴を履き直す。
「お前たち、良い子にしてるんだぞ?」
小さな子供に対するように子猫たちに告げ、心の中で自分に勢いをつけると思い切るようにドアを開けたのだった。
いつもよりやたらと長く感じられた朝礼が終わり、あと五分程で仕事がはじまる。その前に、と裕輔は同僚たちと向かった喫煙所で顎までマスクの位置をずらし煙草に火をつけた。一口目を軽く吐きだし壁に背中を預ける。
教習所の指導員である彼は、仕事道具でもある教習車を洗う間に顔の筋肉が疲れる程くしゃみをしていた。
「今年もきたのか? 花粉症」
隣で椅子を陣取っていた先輩指導員の多田嘉克がからかい混じりの言葉を投げてきた。歳では裕輔の方が上だが、ここでの勤務年数では嘉克の方が長い。
「………お陰さまで」
徹夜明けのような声で答え、二口目の煙を細く吐く。
「ゴシュウショウサマ」
笑いを含んだ声を投げて寄越した嘉克は、思い出したように指に挟んだまだ長い吸いかけの煙草を灰皿に放り込んだ。
「かかりつけの医者がいるわけじゃないなら、夜間診療もやってるとこ紹介しようか?」
「どこ?」
即答で振り返った彼に笑いながら、嘉克は椅子から立ち上がる。
「ひとコマ目終わったら教えるよ。ボチボチ時間だから行こうぜ?」
予想以上の食いつきだったのか、笑いながら歩き出した嘉克に慌てて煙草を灰皿に放り込む。小走りに嘉克を追いながら、彼は胸の前で小さくガッツポーズを作った。
「あ、期待すんな? 俺が知ってる奴はあと半月は研修医だから」
肩越しに投げられた言葉はほとんど裕輔の耳には入っていない。マスクを元通りに引き上げながら教習コースへと向かう。
社会人になってからというもの、なかなか仕事と診察時間が合わず市販の薬で間に合わせていたのだが。どうやら今年は例年よりは少しだけ楽にこの季節を乗り越えられそうだ。やはり市販薬より処方薬だろう。彼らこそ、この戦いの季節に心強い相棒なのだから。
嘉克の紹介先に期待を抱きながら校舎を出る。途端、条件反射のように出たくしゃみも今だけは気にならなかった。
せめて教えてもらえる病院が自宅からも職場からも近いところであることを祈りつつ、彼はファイルを手に外で待っている担当の教習生の元へ小走りで向かったのだった。