指先に触れるもの 9

 遠慮がちに言葉を投げれば、女は軽く目を見開き泰之に視線を戻す。その目に拒絶の色はなかった。すぐ、元のように笑みを浮かべ女が口を開く。
「ええ。そう言えば私、名乗っていませんでしたね。堀本幸恵と申します」
「堀本、幸恵さん………」
 女、幸恵の名前を口中で確認するように呟き、泰之はお世辞でない笑みを返した。
「やさしい名前ですね、貴女にぴったりです。北里泰之です。好きに呼んで下さい」
 幸恵がはにかんだ笑みを返す。
「ありがとうございます」
 そこに泰之の食事と彼女のソフトドリンクが運ばれてきた。食欲をそそる香りがテーブルに広がる。
「なんかすみません。俺ばっかりガッツリ食べちゃって」
「気にしないで下さい。どうぞ、せっかくのお料理が冷めてしまいますから」
 幸恵の笑みに促され、泰之は早速とフォークを手に取り食事をはじめた。目の前に置かれた粗挽きのソーセージと薄切りのフランスパンの乗った皿を引き寄せる。機内食以外、まともな食事を取っていなかった彼は、自覚以上に空腹を感じていたようだ。
 黙々と食事をする泰之をどこか嬉しそうに眺め、幸恵は目の前に置かれたアイスティへと手を伸ばす。
 あっという間にテーブルに並んだ皿を半分ほど空にした泰之は、漸く人心地ついた様子でアイスコーヒーを引き寄せ、幸恵を振り返った。
「思いっきり無言で食っちゃって。あ、良かったらなにかつまみますか?」
 しかし彼女は緩く首を振る。身振りで泰之に食事を再開するよう促し、グラスを手の中に包んだ。
「いいえ。男の人が美味しそうに食べる姿、好きですから。お気遣いなく」
 変わらず笑みを浮かべたままの言葉のはずが、泰之にはどこか切ない印象を残す。彼女の笑みまでが儚さを感じさせるもののように見え、促されるままに再び手を動かしながらも内心に首を傾げた。
 さり気なく幸恵の様子を観察しながら彼は、彼女の印象を言葉に置き換えてみる。
 穏やかで柔らかな笑みを浮かべての、控えめな受け答え。
 長い黒髪と対照的な、透き通るというよりも青白くさえ見えるほどの白い肌。
 触れれば消えてしまいそうな線の細さはどこか、この世のものではないような印象を受けるが………。
 確かに彼女はここで彼と話し、ゆっくりとアイスティを飲んでいる。
 それとも、傍から見れば彼女はこの場に存在していないものなのだろうか?
「北里さん?」
 いつの間にか泰之は自分の考えに意識を取られていたらしい。食事をする手が止まっていた。幸恵の声に我に返り、彼は曖昧な笑みを返しながら言葉を探す。気遣うように彼女が泰之の目を覗きこんでいた。
「ああ、……と。大丈夫です。昼くらいからなにも食べてなかったのに急に食べたから。ちょっと胃がびっくりしたかな?」
 誤魔化すように肩を竦めてみせれば、幸恵は安心したように笑みを漏らす。
「そうですか? 良かった、難しいお顔になられていたようですから、どうかなさったのかと」
「すみません、心配させちゃいましたね。そうだ! さっき一人で旅行って言ってましたよね?」
 彼女の言葉に小さく頭を下げ、泰之は話を逸らすように話題を投げた。幸恵の印象からして一人で海外旅行、と張り切るようには見えない。
「ええ。どうしても行ってみたい場所があったもので、一人でこんな遠くまできてしまいました」
「そうだったんですね」
 笑顔で頷きながら、それでも泰之の中で彼女の言葉が引っ掛かった。海外旅行が手軽に楽しみやすくなった現代、日本とサイパンの距離をこんな遠く、と表現する者はいるだろうか。
 結局泰之の言葉で流れてしまった友人達とのオーストラリア旅行も、行こうと思えばホテルと往復の飛行機がパックになった手軽なフリープランがあった。彼の親の世代までのような海外旅行イコール一部の人間の贅沢、という時代ではない。日本の隣、韓国などへは国内旅行よりも安く、日帰りで遊びに行けてしまうくらいだ。

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