指先に触れるもの 21
孝造と勝司のいた部隊は爆撃がはじまったその翌日、壊滅的な被害を受け、殆どの兵が無残な死を迎えた。その亡骸を踏み越え、二人は狭いサイパンの地を逃げ惑ったという。
かつては日本の勝ち戦を信じ、戦争が終われば家族の元へ意気揚々と帰ることだけを支えに戦ってきた彼らにとって、その現実はあまりにも残酷だった。
勝司は口癖のように言っていたのだという。この戦争に勝ち国へ帰ったならば、幾人でも子が欲しいと。そして今より広い家に越し、そこで笑いながら生涯を過ごすのだと。
孝造もまたよく家族の自慢をした。いかに幼い子供達が可愛く、どんな悪戯をするのか。そして学はなくとも自分に良く尽くしてくれる妻が、どれほど支えになっているのか、ということを。
そんな彼らの前に現実は容赦が無かった。常に死と隣り合わせの戦場は、その重みで正気を蝕もうとする。敵兵と遭遇しないことをひたすらに念じ、それだけで島北部を目指した。二人の手に残されていたものは、自決のためと配られている手榴弾一つだったのだから………。
けれど、二人が味方の部隊がいると信じて必死に向かった島の北部は、死を待つ長い列があるばかりの場所となっていた。
移住した民間人が。従軍の看護婦が。絶望に喰われた味方の兵士が………。誰も彼もが敵兵に怯え、死を願っていた。それがこの、マッピ岬でありマッピ山の崖だった。
二人は絶望し、虚脱して座り込んだまま二日を過ごした。
精神的にも体力的にも既に限界を超えていた二人は、三日目の朝、ふらりと死を待つ列の最後尾についた。
前にいる者から最期の叫びを残し、海へとその身を躍らせていく。虚脱した顔で。絶望に頬を濡らして。恐怖に負けぬ為、数人で手を取り合って………。
やがて、二人の順番が回ってきた。断崖の端に立ち、勝司は乾いた声で呟いたという。
「最期くらい、幸恵の名を呼んでもいいだろうか………? 今更誰に非国民と罵られてもいい。最期くらい………」
その言葉に、孝造はゆっくりと頷いた。呼べばいい、と。胸を張って帰るはずだった国を思うことは、悪くないのだ、と。
その言葉に生気の抜けた静かな笑みを返し、勝司は幸恵の名を呼び赤い絨毯を敷いたような海へとその身を躍らせたのだった。
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語り、幸恵は目を伏せ緩く頭を振った。ゆっくりと言葉を続ける。
「あの人が飛び降りたすぐ後、幸造さんは投降を呼びかけながら現われた敵兵に捕虜にされたそうです。その事をその手紙の中でずっと謝っていました。自分が生き残り、あの人ばかりを死なせてしまったと」
黙って幸恵の言葉を聞いていた泰之は、漸く彼の知る孝造が無口であった理由を知ったように思った。
勝司にとって孝造が唯一無二の戦友であったというならば、それは孝造にとっても同じであったことは想像に難くない。その戦友を目の前で亡くした孝造が、どれほど自分を責め続けていたのか。どれほどその傷は深かったのか。泰之には理解できる気がした。
「じいさんは………それから?」
掠れた声で先を促した泰之に、幸恵は小さく頷くと言葉を続けた。
「すぐに私はお礼の手紙を書きました。孝造さんが生きて帰ってくれたお陰で、私はあの人の最期を知ることができたのですから。ずっと気になっていたことですから。あの人が亡くなる時、痛みに苦しんではいなかったか。ずっと………」
薄らと目に涙を浮かべ、幸恵はそれでも気丈に微笑む。それは泰之がはじめて見るとても透明な微笑みだった。
「あの人はここで命を絶ってしまった。遺品もなにも届きはしなかった。………でも。それでも私はあの人と過ごせた短い時間が、幸せだったと言えるんです。なにもかもが狂っていたあの時代、本当に小さなことが幸せだった………。ただ一緒に過ごせる時間があるということが、どれだけ幸せなことか、あの人は教えてくれました。だから私は、それを頼りに立ち直ることができたんですよ」