刻のむこう 30

 凪の頬に触れた指先から、彼の心を占める戸惑いと認識する事を躊躇っているような安堵の色が流れ込んでくるようだった。その感触に、晴楼は強く頷き返す。途端、凪の体から力が抜け晴楼の腕を伝うように傾いた。そっと華奢な体を抱きとめ、晴楼は一度強く凪の体を抱きしめる。
「当主殿。彼を病院へ」
 控えていた男が晴楼に言葉を投げる。腕の力を抜き、晴楼は肩越しに男に視線を投げた。一度頷き返し、言葉を続ける。
「すぐに搬送してくれ。私と巫も付き添おう」
 感情を抑えた声で告げ、晴楼は男の腕に凪の体を預けた。僅かも身動ぐことなく、凪の体は男の腕に抱き上げられる。
 その様を晴楼の肩越しに見詰めていた隆太郎は、胸中に安堵の吐息を漏らした。立ち上がり部屋の中に視線を走らせる。無残な姿を晒す家具類の上に下に、ヒトであったモノの破片もまた飛び散っていた。誰のものとも知れぬほど細かくされたそれの中には、凪の両親であった者の一部も含まれているのだろう。
 苦い溜息を小さく零し、隆太郎と晴楼は気を失い男に抱き上げられた凪に視線を投げた。踵を返した晴楼の後に続いて隆太郎もまた玄関へと向かう。廊下に出ると、そこにはまだ深い夜の闇がうずくまっていた。
 彼らは足早に空き地に停めたセダンへ向かい、助手席に隆太郎が滑り込む。リアシートには助手席の後ろに晴楼が落ち着いた。男は運転席の後ろに凪の体を横たわらせ、持参していた上掛けでその体を包んだ。そして倒せる限り最大にシートを倒す。運転席に滑り込み、男はバックミラー越しに晴楼を振り返った。
「当主殿、よろしいでしょうか?」
「ああ。……頼む」
 男の声に晴楼が短く頷き返す。
 やがて、彼らを乗せたセダンはゆっくりと動きはじめた。

   24

 凪を影爿の関係先である友崎総合病院に搬送し、諸々の雑事の手配を済ませて隆太郎と晴楼が本拠地である屋敷に戻ったのは朝になってからだった。
 当たり前の顔で晴楼の自室に転がり込んだ隆太郎は、杵椙が用意したと思われる上掛けの上に倒れ込み溜息を落とした。
「………ったー。昨日から俺、滅茶苦茶ハードな仕事しちゃったよ」
 自画自賛の色を含ませた言葉を投げ出せば、隆太郎の隣に仰向けに寝転び目の上に腕を乗せた晴楼が笑いを漏らした。
「確かに、疲れたな………」
 ゆっくりと言葉を落とし、寝返りを打つと大の字に寝転ぶ隆太郎の横顔を眺める。そして、晴楼は思い出したように言葉を投げた。
「巫。………この間の紅茶が飲みたい」
「紅茶? 飲む?」
 顔だけを起こし、隆太郎が晴楼を振り返り笑った。少しばかり照れたように視線を逸らし晴楼が頷き返す。それを確認し、隆太郎は楽しげな笑みを投げ出した。
「晴さんのお願いじゃ、聞いたげなきゃね!」
 言葉を放り出し、隆太郎は勢いをつけて立ち上がる。大きく一度伸びをし晴楼を振り返り告げた。
「準備してくるから待っててね!」
 早速歩き出した隆太郎の後ろ姿は軽い足取りで給湯室の方向へと消えて行く。その背を見送り晴楼は溜息を落とした。目を細め、先程隆太郎がしていたように上掛けの上に寝転びなおす。目を閉じ、友崎総合病院に搬送した凪の姿を目裏に映し出した。
(………あの少年も無事で良かった)
 胸中に安堵の吐息を落とすと、急速に眠気が晴楼の意識をくすぐる。体が正直に伝えてくる疲労に抵抗しきれず、晴楼はそっと目を閉じた。そのまま睡魔がやさしく晴楼の意識を包む。程なく、晴楼の唇からは穏やかな寝息が漏れはじめていた。

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