しゃぼん玉
ふわり……ふぅわり、ふわり………
穏やかに河原を撫でていく微風に、いくつものしゃぼん玉が儚い万華鏡を景色に添えた。陽の加減で、ほんの僅かの風の向きで、そしてその柔らかな面に写し取る景色の色で。様々に色を変える様は、二度と同じ模様のできない万華鏡とよく似ていた。
昼下がりの河原は子供達のはしゃいだ声が遠く近く響いている。その中を漂うように舞うしゃぼん玉は、彼女の幼かった頃の記憶をやさしく刺激した。
彼女がまだ幼かった頃。
年子の兄と妹とおやつの取り合いからけんかになってしまい、むくれていた彼女の手を引いて。彼女の祖父は当時彼女の住んでいた町の片隅にひっそりと残っていた駄菓子屋へ連れて行ってくれた。
今にも傾いてしまいそうな古い家屋の一角を店にしたような外観。そして店と同じように僅かに傾いた姿勢で定位置の座布団に座る、店主のセツばあさん。店の中には所狭し、と子供のお小遣いでもその小さな両手一杯買える駄菓子や玩具が並んでいた。
彼女の祖父は店主であるセツばあさんと茶飲み友達でもあった。そんな繋がりもあり、彼女と彼女の兄妹は祖父に連れられてよくその駄菓子屋へ行っていた。しかしそれまではどんな時も、彼女はその時のようにむくれた顔で行ったことはなかった。
毎回、祖父が渡してくれるお小遣いは百円。その中で目一杯の買い物がしたくて悩む彼女と一緒に、セツばあさんは駄菓子を選んでくれた。その穏やかでやさしい笑顔は、成長した今も彼女の中に鮮やかに残っている。
そしてその時も、セツばあさんはいつもの穏やかな笑顔で彼女を迎えてくれた。
「おやおや、今日はおたふくちゃんだねぇ。可愛いいつものお嬢ちゃんはどこに行っちゃったのかな?」
彼女の柔らかい頬にしわの深く刻まれた指先でやさしく触れ。絹糸のようだと、いつかセツばあさんが褒めてくれた髪を撫で、セツばあさんは笑った。
胸の奥をちくちくと刺激する気持ちがどう呼ぶものなのか、その時の彼女はまだ知らない。けれど駄菓子屋まで連れてきてくれた祖父の温かい手と、セツばあさんの温もりがやさしくて。その温かさに包まれながら、彼女はそれでもいつまでもむくれている自分が少しだけ嫌いになって目を逸らした。
そんな彼女の心を察したように、セツばあさんは穏やかな笑みに少し困ったような色を混ぜた。
「おたふくちゃん。いいの。嫌なことがあったなら、泣いても。いっぱい泣いたらちゃーんと元気になれるのよ? そうしたら、すぐに、いつもの可愛いお嬢ちゃんに戻れるの。大丈夫よ」
そう告げながら彼女の髪を梳き、セツばあさんはそっと彼女を抱きしめた。
途端、それまでむくれていた彼女の頬に、つぅと一粒の透明な雫が伝った。それが呼び水になるかのように、彼女の頬にはいくつもの雫が伝い落ちる。きゅっと目を瞑り、セツばあさんにしがみついて彼女は泣いた。
買い物にきている数人の小学生が、不思議そうに彼女を振り返る。けれど冷やかしたり笑ったりする者はいない。
泣いて。しばらくの間泣いて。彼女はゆっくり顔を上げた。目の前にセツばあさんの笑顔がある。その隣では彼女の祖父が同じように笑って座っていた。
泣いてしまったことより、祖父とセツばあさんの温かさが嬉しくて照れくさくて、彼女は二人から一度視線を外した。目を閉じて、ゆっくり大きくひとつ息を吐き、そっと言葉を唇に乗せた。
「………ありがとう」
と。彼女のその言葉に、セツばあさんはもう一度彼女を抱きしめた。
「ほらね? いつもの可愛いお嬢ちゃんが帰ってきた」
その言葉に彼女も笑い、祖父と説ばあさんを交互に振り返った。
「あと、ごめんなさい。もうおたふくちゃんにならないね」
小さな彼女の、彼女なりに大きな約束に祖父は、よっこらしょ、と声を掛けて立ち上がった。
「よしよし。それじゃあ、ご褒美に宝物をあげないといけないなぁ」
そう言い、祖父は茶色い小さな紙袋、その口からちょこりと桜色のストローを覗かせた宝物を彼女の手に乗せた。それは彼女の小さな手の平に丁度良い大きさ。
目を丸くする彼女に笑いかけ、祖父は口元に指を当てた。
「お兄ちゃん達には内緒だぞ?」
内緒、の言葉に、彼女の顔はみるみる笑顔になる。そして大きく頷いた。
「うん! おじいちゃんと、セツばあちゃんと、あたしのないしょね?」
「そうだ。それじゃ、河原に遊びに行こうか?」
彼女の頭を優しく撫で、祖父は彼女の手をとった。節くれだったしわだらけの大きな手が、宝物ごと彼女の手をやさしく包んでくれる。
その温もりに顔中で笑い、彼女はセツばあさんを振り返った。
「セツばあちゃん、ありがとう! またお買い物していい?」
「ああ、ああ。いつでもおいで。ばあちゃんはいつでも待ってるからね」
何度も頷いてくれるセツばあさんに手を振り、彼女は祖父と共に駄菓子屋を後にした。
そして向かった河原で彼女は、宝物の入った袋を期待いっぱいにそっと開けた。そこに入っていたのはしゃぼん玉だった。なんの変哲もないしゃぼん玉だが、けれどそれは幼い彼女にとって、これ以上ない大切な宝物だった。
そんな幼い頃の記憶をそっと辿りながら、今の彼女はまたひと吹き、しゃぼん玉を風に乗せる。
河原に響く小学生達の遊ぶ声。時折、風に流されてくる遠い車の音。
穏やかな向こう岸の街並みと、後ろに広がる住宅街。
昼下がり特有の、少しのんびりした空気の中、彼女は小さく笑みを漏らした。
(変わったのは住む場所だけじゃないんだろうな。私も変わっちゃったな)
こっそりと胸中に言葉を漏らす彼女の表情は穏やかだ。変わらないものはない。けれど、記憶は、そこに詰まっている想いは、いつまでも変わることはない。
そんな思いを微風に乗せ、彼女はしゃぼん玉の小さなプラスチック容器が空になるまで、その儚い万華鏡を飛ばしていた。