指先に触れるもの 11
「そうしたら明日は準備済んだらロビーにいてください。俺もなるべく早く行くんで」
エレベーターが動き出す感覚を壁に凭れて確認しながら、泰之が幸恵に告げる。その言葉に頷き返し、彼女はほんの僅か笑みを深くした。
「わかりました。明日は、お願いいたします」
彼女の言葉にはっきりと頷き、泰之は自分が降りる階が近付いたことを確認する。程なく止まったエレベーターが口を開け、彼は幸恵を振り返りもう一度笑みを作った。
「それじゃ、おやすみなさい」
今夜はまた眠れないだろうという予感を意識に端に触れさせながら、それでも彼はそんな言葉を唇に触れさせる。
「はい。おやすみなさい」
幸恵の言葉を確認し、泰之はゆっくりとエレベーターホールに踏み出した。背中でドアの閉まる気配を確認し真っ直ぐに部屋へと向かう。
知らず溜め息が唇を突いた。
(太平洋戦争の史跡、か………。まさか、な……?)
幸恵の口から出た意外な言葉に、彼の意識は夢の内容へと強い力で引き戻される。現実と夢の区別がつかなくなるのではないかと思うほど、強烈に。日本では梅雨に入ったこの季節、この場所で、かの史跡へ行こうとしている彼女と出会った。
これは偶然なのか。それとも………。
夢の内容と結びつけて考えそうになっている自分を、無駄な抵抗と知りつつ抑えようともがく。泰之は辿り着いたドアの前で溜め息を重ねた。手にしたままのルームキーでロックを解除し、やけに重くなったように感じる足を引きずって部屋に入る。
背中でドアが閉まった。オートロックが働く音を意識に端に引っ掛け、彼は真っ直ぐにベッドへと向かう。
歩きながら靴を脱ぎ、着の身着のままベッドへと沈んだ。やけに体が重く感じられる。
(考えるのも面倒だ………)
溜め息のように胸中で零し、泰之はゆっくりと目を閉じた。そのまま眠ってしまってしまおうかとも考えたが、寝汗をべったりかいていたことを思い出し彼は溜め息を重ねて起き上がる。
「シャワーくらい浴びるか………」
自らへ言い聞かせるように声にし、ベッドから立ち上がったのだった。
12
準備ともいえない準備をし、シャワーを浴びる泰之は狭いバスルームの壁に手を突ききつく目を閉じていた。脳裏にこびりついて離れない夢の内容。夕刻のマッピ岬で感じた視線と、堀本幸恵という存在。
いくつもの事柄が頭の中で混ざり合い、軽い頭痛を覚える。全てを同じ線で結んでしまうことは間違っているのかも知れないが、どうしてもそこから思考を引き剥がすことができなかった。
(おかしなことばかりだ……)
胸中に漏れる溜め息に、自嘲が唇を染める。胸に浮かぶのは、今頃彼を心配しているだろう夕衣の姿だった。こんな時、夕衣が傍にいてくれたらどれほど楽なことだろうか。全てを話し、それをただ彼女に聞いてもらえるだけで十分なのだ。それだけで彼の心はもっと楽になるだろう。
しかし、そうしてしまうにはどうしても抵抗があった。話してしまえば彼自身は楽になれるだろう。けれどその分、彼女に余計な負担を掛けるだろうことが簡単に予想できた。なによりあの奇妙な夢を彼女に伝染させてしまうかも知れないということが、不安でならない。だからこそ、なに一つ夢のことは彼女には話さなかったのだ。
結果、彼は今、一人この地を訪れている。それで良い、それで良いのだ。これがベストな選択であった。そう頭ではわかっていても、彼の全身を、意識を縛ってやまない不安と恐怖が夕衣の存在を求めている。
(このままじゃ……俺はおかしくなる………)
胸中に吐き出した言葉に体が震えた。熱めに設定したはずのシャワーの温度がわからなくなる。
なにをどこで踏み違えたのか。まるで自分ひとりが現実から取り残されてしまったような心細さが不安を余計に掻き立てた。
湯気に煙るバスルームで、彼は自身を雁字搦めにする恐怖と不安を振り払おうと幾度も頭を振るのだった。