指先に触れるもの 1
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遥かに続く鮮やかなコバルトブルーの海原を眼下に眺め、北里泰之は夕刻の気配を肌の上に触れさせる。弧を描く水平線に見える薄い影は漁船だろうか、穏やかな波間に静かに浮いている。
彼が今いるのは、サイパン島北部に位置するマッピ岬に作られた平和記念公園だ。断崖ぎりぎりに設けられた柵へと体を預け、途切れなく耳に届く潮騒を聞くともなしに聞く。
彼の背後には、第二次大戦中に自決した旧日本軍兵士や民間人の魂を弔う為の慰霊碑が静かに佇んでいた。訪れた観光客が献じたのか、やさしい色の花束が潮風に微かに揺れている。
(………間違いない。やっぱりこの場所だ)
胸中に言葉を零し、泰之は海に向けて投げていた視線を僅かに伏せる。その胸に浮かぶのは奇妙な既視感だ。
彼がサイパンを訪れたのは今回がはじめて。知るはずのない場所に既視感を覚えるのはおかしなことなのかもしれない。しかし、確かに彼はこの場所を知っている。自分の目を通して見た覚えがあるのだ。
(どうかしてるのかもな………)
自嘲気味に胸中へ落とした言葉は、彼の口許に諦めたような苦笑を誘う。僅かに風向きが変わったのか、長めの彼の前髪が乱された。海風は潮の香りを濃く含み、ある種の爽やかささえ感じられる。泰之以外、この場に誰もいないということも余計にその感覚を誘うのかもしれないが………。
波と風の音以外は存在しない静かな場所。眼下はるかに広がる海が彼を見詰め返しているだけだ。他にはなにも存在しない。
彼がサイパンに到着したのは夕刻に近い時間だった。今回の渡航を決めたのはつい十日ほど前のこと。もともと春先に学生時代からの友人達とオーストラリアへの旅行を計画していたのだが、直前になりどうしても気持ちが向かなくなってしまった。友人達には随分と残念がられたが、原因にも思い当たる節があり謝り倒して今に至る。
友人達と旅行の計画を立てていた時、早めに、と期限の切れていたパスポートを更新していた為に今回の急な思いつきが実行できたのだ。
そのような偶然もあり泰之は一人、今日午後一つ目の便で成田を発ち……この場にいる。
(時期外れだったのはラッキーだったけど………よく取れたよな、飛行機とホテル)
苦笑の滲む言葉を胸中に落とし、泰之は風に乱れた前髪を掻き上げ視線を巡らせた。彼の視界で唯一時の経過を知らせてくれるものは太陽の傾きだけ。それ以外のものは全て、時間という流れから置き去りにされたようにただ、この場にあった。巡らせた視界にそのどこか淋しい気配を否応なしに確認してしまう。
その様に奇妙な切なさと侘しさに似た感情を覚え、泰之は視線を伏せた。その先には、ざらりとした感触の地面。途端に靴底にある大小の石の感触が自己主張をはじめたような気がする。
再び視線を上げた泰之は、静かに刻々と夕刻の色に染まっていく視界に今は亡き祖父を
思った。
彼の祖父、孝造はとにかく無口な男だった。生まれた時から一緒に暮らしていた泰之でさえ、声を上げて笑った彼の姿を見たのは僅か数回。かといって特別人嫌いというわけではなく、叔父、叔母の配偶者や泰之のいとこ達を含め家族というものをなによりも大切にしていた。
どんな時でもじっくりと。時には辛抱強く頷きながら最後まで話を聞いてくれる孝造は、泰之にとってかけがえのない大切な存在だった。それだけではなく、その背で常に家族を何者からも守ろうとする姿に、純粋に憧れた存在でもある。そんな孝造が相手ならば、両親にも友人にも相談するには抵抗のある話題も素直に口にできた。
どんな時でもやさしく真っ直ぐに接してくれた孝造だが、泰之がまだ幼かった頃。一度だけ声を荒げるほどきつく叱られたことがあった。
それは泰之や彼のいとこ達、叔父叔母。そして彼の両親に対しても同じなのだが、悪意からもしくは考えなしに発した言葉で他者を傷つけてしまった場合だ。そんな時、孝造は決まって悲しそうな辛そうな表情で、言葉で人を傷つけることは拳を振り上げ力で相手を黙らせるよりもしてはいけないことなのだ、と諭す。
泰之はその言葉の根底にある孝造の想いが、なにから発したものなのかまではわからなかった。それでも二度と無造作に他者を傷つけるようなことはしない、という意味のことを泣きながら約束したことを今でもはっきりと覚えている。