雨のち晴れ
つい、と窓を滑り落ちた雨の雫に、安形美雪は意識を引かれた。
なんということもない見慣れた窓は、彼女の好きな柔らかい水色のカーテンが両脇に束ねられている。今、閉め切った窓を挟んで外界と彼女のいる部屋を仕切っているのはレースのカーテンだけ。シャボン玉のような模様を幾重にも描くそれは、ただ静かにそこにある。
「閉めたつもりだったけど………」
不意のように彼女の唇を伝い落ちた言葉は、彼女の視線の先、僅かに隙間を作るカーテンに向けられた吐息だった。
祖母、セツから譲り受けたアンティークの安楽椅子から立ち上がり、ついでのように猫足のサイドテーブルに読みかけの文庫を伏せて置く。飴色のサイドテーブルもまた、セツから譲り受けた品物だった。
窓に歩み寄った彼女はそっとレースのカーテンに手を掛ける。その視線の先で薄らと結露した窓が彼女に外との温度差を知らせる。ほんのりと心地良く暖まった室内は、彼女の肩を包むカシミアのストールごと彼女を柔らかく抱きしめていた。
そのやさしい感触に知らず彼女の唇には微かな笑が浮かぶ。何気なく肩越しに振り返った室内は水色に近い白の壁紙に包まれている。けして広い部屋ではないが、ここは彼女が家にいる時間の中で最も長く過ごすお気に入りの場所だ。
心地良い温度に保たれた室内とは対照的に、窓の外には冬の冷たい雨が降っていた。道路に面したその窓からは、向かいにある小さな児童公園が広く見渡せる。晴れた週末には夢中になって遊ぶ小学生の賑やかな声が聞こえてくる見られる公園だ。
それが今は冷たい雫に濡れ、どこか泣いているような印象を彼女に与えている。
(雨の公園ほど淋しいものってないわね………)
そっと胸中に言葉を落とし、彼女はレースのカーテンの隙間をなくした。その余韻を部屋に滲ませるように、両端に束ねたカーテンが微かに揺れる。
窓に凭れ掛かり、彼女は穏やかに沈黙する部屋の中を見回してみた。
壁際に置かれた大小の本棚には、サイズ別に整然と本が収納されている。文庫に新書、ハードカバー、雑誌。風景の写真集や気紛れに買った画集………。どれもが静かに、彼女が手に取る瞬間を待っていた。
背の低い本棚の上には、シンプルで飾り気のない振り子時計が静かに時を刻んでいる。振り子が揺れる度にやさしい音が部屋に広がる。これもまた彼女がセツから譲り受けた品物だった。
そして申し訳程度に天井付近に取り付けられているエアコンはひっそりと沈黙している。
猫足のサイドテーブルの上には、先程彼女が伏せた文庫とお気に入りのマグカップが置いてある。湯気の途切れた紅茶から彼女は時間の経過を知る。思ったより本に夢中になっていたようだ。安楽椅子の足元には、冬特有の乾燥を防ぐ為に加湿器がある。その隣ではファンヒーターが温かな風を部屋に広げていた。
特に飾り気もなく、必要なもの意外はおかれていないこの部屋は、けれど彼女には他のどこよりも落ち着ける心地良い場所。
そっと視線を巡らせ、彼女はそれらのものを慈しむように目を細める。
この部屋には、両親よりも長い時間を共に過ごしたセツから生前に譲り受けた品がいくつもある。
ショールの柔らかな感触を確かめるようにそっと自らの腕に触れ、彼女は窓に寄りかかったまま肩越しに窓の外へ視線を投げた。
レースのカーテンの向こうに広がる雨の景色。窓を伝う雫の色。くすんだような空は雲の厚みをぼんやりと知らせていた。
心地良い家の中とは対照的な外の景色。その中に、晴れの日には感じることのない淋しさを不意に見付け、彼女は目を細めた。その目にはどこか切なさを含んだ迷いの色が滲み出している。溜め息を一つ零し、彼女はそっと頭を振る。
(そういえば………)
不意に言葉が零れた。音のない言葉は吐息のように彼女の周りに緩く漂う。振り子時計が彼女の意識を過ぎ去った時間の中に引き戻すように響いた。懐かしい記憶に手を伸ばし、彼女は静かに目を閉じた。
美雪の生まれ育った街は、自然と人工物のバランスが半々、といった印象の地域だった。郊外というには少しばかり田舎の雰囲気を残している印象もあったが、だからといって生活に不便を感じるほどではない地域。
可もなく不可もなく。子供の遊び場もあれば、背伸びをしたい年頃にもそれなりに満足できる場所がある。その所為か彼女の両親の同級生達も半数以上がこの街に残っていた。同級生の両親が中学高校時代の同級生、という光景が珍しくなかった。
そういった環境で彼女は、家にいる時間の殆どを同居していたセツと過ごしていた。
学校は学校、放課後は放課後。そんな感覚でいたわけではないが、彼女は中学を卒業する頃まで放課後にはセツと過ごす時間が長かった。
両親が共働きをしていたこともあるだろう。けれど休みの日には良く遊び相手をしてくれた両親だ。単純に両親が共働きで家にいない淋しさを埋める為に祖母にべったり甘えていたというわけでない。両親から十分な愛情を受けて育ったという自覚がある。それでも不思議にセツと共に過ごす時間が多かったのは、彼女が自然に肩の力を抜くことができる穏やかさをセツが持っていたからなのだろう。
セツはけして多弁な性質ではなかった。ゆったりとした一日の大半を庭に植えた草花の手入れと読書に当てるような、そんな人物だった。
彼女が幼稚園に上がる前も上がってからも。自分の読む本を図書館で借りる時には必ず、彼女の為の本も一緒に選び、家に帰れば必ずそれを読み聞かせてくれた。セツの少し嗄れた柔らかいトーンの声は、彼女を物語の世界に誘ってくれる道標のようだった。
セツが庭に植えた草花の手入れをする傍らで彼女が遊んでいれば、時折手を止めては微笑んで見守ってくれる。一緒に蒔いた種が芽を出し、やがて成長する様を見守るわくわくした時間もまた、彼女の中で今も鮮やかに思い出すことのできるセツとの記憶だった。
やがて小学校に上がり、それまでより家で過ごす時間が少なくなってからも。彼女は決まってセツの傍らで過ごした。セツの傍らで宿題を済ませ、学校であったことを報告し、本を読み。時折、のんびりと草花の彩る庭を一緒に眺めた。
そんな穏やかでゆったりとした時間の流れそのもののようなセツの人柄は、彼女に受け継がれている。彼女にとって、穏やかでやさしい時間はセツの存在そのものだった。
目を閉じ、幼い記憶に意識を遊ばせる美雪の口許は、柔らかな笑みの形を作っていた。当時の穏やかな記憶は大人になった今も彼女をやさしく抱きしめ、時には励ましてくれる。どんな時でも彼女が前を向いていられるのは、亡くなるその前の晩までのセツとの記憶があるからだ。
目を閉じたまま更に記憶を辿り、彼女はそっと吐息を零した。
(おばあちゃん………)
そっと心の中でセツを呼んでみる。当然、返る言葉はないがそれでもセツの穏やかな笑みが彼女に今も向けられているように感じられる。
薄く目を開け、肩越しにもう一度窓の外に視線を投げる。朝から降り続けている雨は、今もその雫で地上を濡らしていた。つ、と結露した窓に雫が伝った。
(散歩、行こうかしら?)
問うように自らへ言葉を向け、美雪は羽織っていたショールに手を掛ける。安楽椅子へ歩み寄りながら簡単にショールを畳み、背もたれに掛けた。サイドテーブルへ伏せたままの文庫を手に取り改めて栞を挟み直した彼女は、一度ゆっくり部屋の中へ視線を巡らせ踵を返した。
玄関へ向かいながら彼女は、ダイニングのテーブルに置いたままの携帯電話と財布を取り上げた。それを下駄箱の上の僅かなスペースに置き、玄関脇に掛けてあるコートを手早く羽織る。ついでのように左右のポケットへ携帯電話と財布を滑り込ませた彼女は、お気に入りのブーツを選んだ。そして下駄箱の上の小物入れから玄関の鍵を手に取る。
忘れ物がないことを軽くポケットを叩いて確認し、最後にカーテンと同じ水色の傘を取り上げた。
「いってきます」
誰もいない部屋に向かって言葉を落とし、彼女はゆっくりと玄関を出る。途端、彼女の体を冬の雨の気配が包んだ。僅かに首を竦め、雨の景色に視線を巡らせる。
そこから見える景色は、マンションの敷地の向こうに沈黙した住宅街の屋根が見えるばかり。特別彼女の興味を引くものもなければ、変わったものもなかった。
視線を巡らせた彼女は、胸中に静かな吐息を落とし、玄関を施錠する。鍵の掛かる音が鈍く周囲の空気を震わせるが、余韻もなくすぐに霧散した。沈黙はどこまでも低く、まるで空を覆う今日の雨雲のよう。
不意に沈みそうになった気持ちを引き上げるように、口許にあるかなしかの薄い笑みを浮かべ、彼女はエレベーターホールへ向けてゆっくりと踵を返した。ヒールの高い靴独特の足音が、マンションの外廊下に響く。それもまた施錠の音のように殆ど余韻は持たない。廊下の手摺りに当たって奇妙に反響するばかりだ。
こんな雨の日はどこへ行ってみようか。
今更のように胸中に言葉が零れる。目的地なく散歩するには、この天気だ。けして向いている日ではない。ならばただ静かな雨の景色を眺めに行こうか。それに似合うお気に入りの喫茶店もある。
しかし、と彼女は胸中で自らの考えに頭を振った。
先程まで窓に凭れて辿っていたセツとの記憶が彼女をやわらかく刺激している。
セツが亡くなったのを機に実家を出てこのマンションに住みはじめた頃から、彼女は図書館で本を借りて読むという習慣がなくなっていた。
以前はセツと散歩したあの道を通って足繁く図書館に通っていた。けれどこのマンションからでは歩いて行ける範囲に図書館がないということもあり、専ら近所の古本屋に足を向けていた。
(この近くだと図書館は………あの喫茶店とは逆の方向ね)
苦笑交じりの言葉が不意に胸中に零れる。しかし図書館へ行くという思い付きが今日は、不思議と心地良かった。いつもと違うことがしたい、そんな気分も手伝ったのだろう。
住宅街を抜け、大通りに出て右に向かうと行きつけの喫茶店と駅がある。左へ向かって十五分ほど歩くと図書館があるのだ。
ここに住むようになってからは、図書館へ行く都合があったとしても必ずといって良いほど彼女は車を使っていた。けれど今日はこの雨の中を歩きたい気分だった。この気持ちのまま歩いて図書館へ向かってみようか。
珍しい自らの考えに吐息のような笑みを零し、彼女はタイミング良く上昇してきたエレベーターへ足早に向かった。
図書館に向けて歩きはじめた美雪は、今日は図書館まで歩くことを苦にしていない自身に気付いた。普段は雨というだけで煩わしさばかりが意識に触れ滅入りがちなのだが、何故か今日は車を使おうという考えは浮かばない。時間に追われている感覚がないからかも知れない。夕方までまだ時間も十分にあるのだ、天気は雨でもゆっくりと歩いてみるのも良い。そう思えた。
(おばあちゃんのことを思い出してたから?)
自らに問うてみれば、それはあながち的を外しているわけでもないように感じられる。その感覚に安堵を覚え、彼女は無意識のうちに肩の力を抜いた。この数日、気を抜くと彼女の心に触れる切なさ、不安の感情が今はあまり意識を刺激しない。
今は幸い、どんな表情をしていても傘が他者の視線から隠してくれる。そのことが更に彼女を素直にしているのかもしれなかった。
足元で跳ねる雨の雫がブーツの表面を滑って落ちる。靴底をくすぐる水溜りが彼女が歩く度に戯れついた。空から落ちてくる無数の雫が、地上にある全ての物の形を辿るように降り続ける。
雨が降る度、数え切れないほど繰り返されてきたそんな光景が、自然と彼女の記憶に寄り添う。
子供の頃はいつも不思議だった。
何故、雨が降るのか。何故、水溜りができるのか。何故、雨の日は長靴を履かなければならないのか。何故、傘が必要なのか。何故、雨に濡れた木々の葉はいつもより鮮やかに見えるのか。
何故、何故……、何故………?
不思議だった殆ど全ての事柄に、今の彼女は説明がつけられる。理屈で、常識で。当たり前のこととして。
しかしセツは、無邪気に何故? と問う彼女にどのような答えをくれただろうか?
どうしてだろうねぇ?
そう言っては、穏やかに微笑みながらお伽話のような昔話のような、そういう印象の答えをくれた。庭を眺めながら。彼女にレインコートを着せ、傘を持たせながら。セツはいつでも彼女の傍らで静かに、たくさんの小さな物語を語って聞かせた。
不意に彼女は、あの頃いつでも傍らにあったセツの声が、気配が。不意に傍にあるように感じた。
自然とその場に足を止め、彼女は僅かに傘を持ち上げてゆっくりと周囲を見回す。当然、この場にセツの姿があるはずもない。
しかし確かに彼女はセツの気配を感じた。実家のある地域とこの場所は、けして近くはない。同じ住宅街といっても景色がまるで違っていた。それでもこの視界にセツがいるように感じられる。
(………不思議)
胸中に落とした彼女の言葉には、どこか嬉しそうな響きが含まれている。日課のようにセツと通った図書館の記憶に誘われるように、再び彼女は足を動かしはじめた。あの頃のようなゆっくりとしたペースで。
「…おばあちゃん、図書館行こう」
あの頃と同じ言葉を声に出して告げてみる。
「はいはい。美雪ちゃんは本が大好きだねぇ」
柔らかくて温かいセツの声が、そんな返事をしたような気がした。
はにかんだ表情で彼女は、そっと左手を宙に差し出す。いつもそうしてセツと手を繋いで歩いた。その温もりが手の平に蘇る。皺くちゃで少し乾いた、けれどいつも温かいセツの手が、今は大人になった美雪の手に触れた。
それを気の所為と切り捨ててしまえばそれまでのこと。しかし彼女はそうはしなかった。できない。
理由もなく淋しくなった時。些細なことで友達と喧嘩をしてしまった時。つまらない悪戯を言い出せないまま両親に謝れずにいた時。
いつでもセツは小さな彼女の手を包むように握り安堵を与えてくれた。愛しそうに微笑みながら髪を撫でてくれた。黙ってただ受け止めてくれた。
そうしてずっと傍にいてくれたセツは、彼女が大学受験で第一志望の学校へ入学が決まったのを見届けると、眠るような穏やかな表情で覚めない眠りに就いた。もう、彼女のことで心配することはなにもない、というように。
セツを亡くしてすぐの頃、彼女は気が抜けたようにただ無為に時間を過ごしていた。けれど大学の入学式を終え講義がはじまってしまえば、大学生ならではの賑やかな日常に追いかけられ。いつしかセツのいない淋しさは埋められていった。
それでも迷った時、傷付いた時、泣けなくなるほど苦しんでいる時。今のようにセツの存在を身近に感じることが今までもあった。あの心地良い温かさと、やさしい手の感触と共に。
(……今も、私は迷ってる。どうするのが一番良いのかわからなくて………)
自らと向き合うように胸中に呟けば、セツと繋ぐように伸ばした手に温もりが伝わってきた。
「大丈夫。美雪ちゃんなら、大丈夫よ。おばあちゃんがついているでしょう?」
そんな言葉が伝わってくるように感じられる。でも、と彼女は小さく首を振った。傘を持つ手が微かに震え、彼女の迷いを伝える。不意に零れた雨の筋が音を立てて道路で跳ねた。それを視界の端に映しながら彼女は胸中で言葉を続けた。
(でもね、おばあちゃん……。自信が持てないのよ。本当にそれが正しい選択なのかって。怖い。私が今間違ってしまったら、きっとみんなを不幸にしてしまう。そんな気がしてならないの)
続けた自らの言葉に、彼女は鼻の奥がつんと痛くなる。不安で。でも泣くことのできない自分を無理に誤魔化しているからだ、と自覚した。
そう。彼女はこの数日、自らの不安を誤魔化していた。誰にも相談できず、他者から与えられる答えに怯えて。一人で思考の袋小路に迷い込んでしまっていた。どうすれば、なにを選択すれば進むべき道が見付かるのかわからずに。
少しの沈黙を挟み、セツの言葉が手を通して伝わってきた。
「そんなに不安がることなんてなにもないの。そりゃぁ、はじめはみんな驚くでしょうね。あたしも驚いたわ。でもね………」
一呼吸分の静寂を落とし、セツは微笑む気配でゆっくりと言葉を続けた。
「思うようにしなさい。自分で選んだ答えが間違いじゃなかったって。そう思えるように。それとも、怖がって今諦めてしまって。美雪ちゃんは幸せになれるの? 美雪ちゃんが美雪ちゃんでいられるのは、この一生しかないの。思うように生きなさい」
彼女より僅かに低い位置から真っ直ぐに見上げる視線を感じ、彼女はそっと振り返る。縋るような色を含む目が雨を吸ったように揺れ、透明な雫が一筋、頬を滑って零れ落ちた。
「なにも怖がることなんてないの。誰でもはじめはみんな怖いわ。ちゃんとできるかしら? 失敗しやしないか? って。美雪ちゃんは、少しだけ他の人より頑張らなきゃならないだけのこと」
目を伏せ、彼女はセツから伝わる言葉にじっと耳を傾ける。その頬が零れる雫で濡れるのもそのままに。
「辛い時はみんなを頼りなさい。はじめはなにを言っても、みんな、美雪ちゃんが幸せになることを願ってるのよ。大丈夫、美雪ちゃんはおばあちゃんの孫でしょう? 思ったようにしなさい。できるわよ」
そう告げ、セツは彼女が子供の頃そうしたようにそっと頭を撫でてくれる。その手の温かさに彼女の中で少しずつ選ぶべき答えが見えてきた。そしてそれは、彼女にとって後悔のない選択として、ゆっくりと、けれどはっきり見えてくる。
同時に、彼女の中で縺れ曇っていた感情が静かに雨を降らせはじめる。透明で静かなそれは、少しずつ溢れ彼女の頬を滑り落ちる雫と混ざり合う。はらりはらり、と桜の花弁が音もなく風に流されるように。静かに、そっと彼女の頬を濡らしていく。
「あらあら。困ったわねぇ。今からそれじゃ、その時には洪水になってしまうわよ」
手を通して感じるセツの言葉に、彼女は知らず口許に柔らかな笑みを掃いた。零れ落ちる雫はそのままに、けれど彼女は素直な笑みを自然に浮かべる。
小さく笑みを漏らし、彼女は囁くように声に出して頷いた。
「ありがとう、おばあちゃん………」
頷き返す気配が彼女を包む。彼女の中の雲が少しずつ晴れていくように、セツの気配もまたそっと離れていった。
いつの間にか美雪は、住宅街のメイン通りを抜け大通りとぶつかる交差点に辿り着いていた。不意に頬を伝う雫が冷たく感じ、視界が目の前の景色をはっきりと写す。
歩道に面したビルの前に足を止め傘の柄を持ち直す。セツの気配はもうない。彼女の手に僅かに温もりが残っているきりだ。
目の前の大通りは忙しなく車が行き交い、人の流れが彼女の視界を遮る。その様を眺め、彼女はそっと吐息を漏らした。この信号を右に向かえば喫茶店がある。そして予定通り左に向かえば図書館があるのだ。
すぐに決めてしまうのは少し勿体ない。
そんな感情が彼女の中にそっと浮かんできた。このまま誰かと待ち合わせをしている気分でしばらく景色に溶け込んでみようか。まだ彼女の中にある全ての雲が消えたわけではない。もう少しだけここで完全に雲が晴れるのを待ってみるのも悪くないだろう。
その思い付きが新鮮に思えて、彼女は車道と歩道を分けるガードレールへとゆっくり歩み寄った。
無数に行き交う車をぼんやりと眺め、思考を巡らせる。彼女がこれからしようとしている事へのはじめの一歩を踏み出す為に。それが間違った一歩ではないと、自らに確認する為に。
間違えない人間なんていない。それでも最期にあれで良かった、そう言えたら全てが正解になる。
いつであったか、セツがそんな言葉をくれたことがあった。なにかの本の引用であったのか、それともセツ自身の経験から生まれた言葉であったのか。どちらにせよ彼女にとってそれはセツの言葉だった。
傘を持つ手に微かに力がこもる。視線は車道を行き交う車に投げたまま、じっと自らと向き合う。
彼女の腹には今、八週目に入った子供がいる。その子供の父親は彼女に直属の上司に当たる男だった。そして男は家庭がある身。本来ならばけして個人的な繋がりを持ってはならない相手が子供の父親だった。
半年ほど前だったろうか。彼女が仕事の人間関係で悩んでいた時、それを打ち明けたことがきっかけで関係ができた。
とはいえ、恋人という言葉で互いを認識していたわけではない。彼女は疲れた心を癒せる場所として、男は家庭での虚しさを埋める一時的な逃げ場所として。月に一度、多くても二度。時間を共有していた。
彼女自身、それ以上なにも望むことはなかった。他愛ない話しをして、仮初めの関係を感じ取れればそれで十分だった。
けれどそれが結果的に望まない現実を引き寄せてしまった。
まだ男に妊娠したことは伝えていない。このまま何事もなかったかのようにリセットしてしまうことも今ならばまだ可能なこと。リセットし、男とのプライベートな関係も断ち切ってしまえば、それで全てがなかったことにできる。
今リセットしなければ、リセットができなくなる。
そう考えていた彼女の意思とは無関係に、日々成長していく子供への愛情が彼女の中で同じように成長しはじめていた。
このまま産んだとしても、周囲から反対されることは明らか。そして子供に父親はいない。誰が父親であるか、言うわけにはいかないのだ。
男にも妊娠したことを告げず、子供にも父親がいないという負い目を背負わせて。それでも彼女一人で育てて行けるのか?
子供への愛情と同じだけ、不安と迷いが彼女の中で大きくなり、一人では結論が出せずにいた。最善の選択、というものがなにか、わからなくなってしまっていた。
けれどセツの存在が、言葉が。彼女の迷いを晴らしてくれた。身近な人間からどう見られるかよりも、彼女が彼女の意思で後悔のない未来を選ぶことが大事なのだと。そう教えてくれた。
お陰で今は、誰に反対されたとしても最後には彼女のした選択を認めてくれる、と。彼女が今までぼんやりと思い描いていた幸せの中に、彼女と子供がいることができるように手を差し伸べてくれるだろう、と。
その言葉は、一人で答えを出せずに立ち尽くしていた彼女を柔らかく包んでくれた。そして繰り返し「大丈夫」と、昔のままの笑みで彼女の迷いを取り払ってくれた。
あの、セツの視線も微笑みも言葉も。全ては彼女の不安が作り出した都合の良い想像の産物でしかない。
人に話せばそんな言葉が返ってくるだろう。しかし彼女には、彼女を励まし。彼女のしようとしていた選択が間違いではないと、やさしく背を押してくれたセツの存在がそんなあやふやなものであるとは思えなかった。仮に想像の産物だったとしても、セツが今この場にいてくれたら同じ言葉で彼女を包んでくれただろう。
自然と彼女の唇に浮かんだ笑みが柔らかくなった。
(大丈夫。おばあちゃんがずっと見ててくれたら、なにがあっても頑張れる。誰にどんなことを言われても、頑張るから)
不意に胸中に言葉が零れた。彼女は少しずつ渋滞のはじまった大通りを行き交う車を眺め、緩くかぶりを振る。唇に浮かんだ笑みが彼女の中に最後まで居座っていた雲をそっと消していった。
ふっと彼女は小さく吐息を零した。いつの間にか頬を濡らしていた涙も乾いている。
雨音と車の排気音、そしていつもより幾分静かに感じられる周囲の雑踏。天気の良い日のような賑やかさのない周囲の空気と対照的に、彼女の気持ちは軽くなり、晴れていた。コートの裾から忍び込む冬の気配さえ気にならない。
そっとコートの上からまだ目立たない腹に触れてみる。そこには確かに、彼女の子供が宿っているのだ。日に日に愛しさの増すその子は、一生懸命に成長しようとしているのだろう。先日、妊娠を確認する為に受診した婦人科で見たエコーの画像では、はっきりと心臓の動く様が見て取れた。
まだ人間らしくは見えなかったその体の中心で、確かに動いていた心臓。それを見た時の複雑な。けれどどうしようもなく愛しいと感じたあの思いを手元に引き寄せ、彼女は傘に隠れるように小さく笑みを漏らした。
(大丈夫よね。私は独りじゃないんだもの。あなたがいてくれる。一緒に、幸せになろうね………)
胸中で囁き、柔らかくコートを叩いてみる。反応があるわけではないが、そうすることが当たり前なのだと自然に感じられた。
これからきっと彼女は、そうして子供に話し掛けるだろう。朝起きた時、街を歩いている時、買い物をしている時。映画を観る時も、食事をする時も、本を読む時も。
当たり前のように話し掛け、幼かった彼女にセツがしてくれたように穏やかに笑いかけるだろう。
(いろいろ準備しないとね。そうだ、今度の検診の時までに、母子手帳もらってこなきゃいけないね)
少しだけ照れくさそうに胸中で話し掛け、彼女は傘を傾けて自然と浮かんでしまう笑みを隠した。その拍子に傘を伝った雫にも笑みを誘われる。
不意に踵を返し、彼女は行きつけの喫茶店へ向けて歩き出した。セツには図書館へ行こうといったが、今はゆっくり落ち着いて温かいものでも飲みたい気分だった。
いつもオーダーするオリジナルブレンドのコーヒーはしばらく控えてみようか。その代わり、あの不思議に落ち着く雰囲気を纏ったマスターにおすすめの紅茶を淹れてもらおう。
胸中に言葉を零した彼女は穏やかな笑みを浮かべ、迷いの消えた足取りで喫茶店へと雨の景色を辿って行った。