指先に触れるもの 19
凄惨な過去と今の穏やかな南国の空気、それらを抱くのはいつの時代も変らない海と空の存在だ。様々な感情が彼の中で渦を巻き、胸を締め付ける。突き詰めればたった一つの言葉に繋がるのだろう感情は、しかし今は言葉が散乱し過ぎてしまい拾い上げることができなかった。溜め息が唇を突く。
ゆっくりと体の向きを変え、泰之は幸恵の姿を探した。彼女は先程と同じ場所に、胸を押さえて蹲っている。伏せた顔は髪に隠れてよく見えないが、泰之には彼女が泣いているように見えた。
(まだ、時間はたっぷりあるんだ………)
胸中に呟き、再び幸恵から視線を外した泰之は彼女が次を促しにくるのを待つことにしたのだった。
25
それから三十分ほどで立ち上がった幸恵と共に、泰之は再びマッピ岬を訪れた。昨日の閑散とした時間帯とは違い、他に観光客のいる景色は違和感に似た奇妙な感覚がある。この場所が今は世界に無数にある観光地の一つなのでしかないのだ、というどこか安っぽい思いが泰之の胸に落ちてきた。
しかしそれはほんの僅かのこと。並んで歩く幸恵の足が海の見える位置まで進んだところで不自然な程、急に止まったのだ。
「堀本さん?」
数歩進んだところで立ち止まり、不思議そうに泰之が振り返るが反応が無い。彼の声など聞こえていないかのように、彼女は涙に濡れた目を見開いて立ち尽くしていた。口元を覆う手が見て取れるほど、震えている。
「ここが………」
泰之が聞き取れるかどうかの弱い声が彼女の唇から漏れた。きつく目を瞑り、膝から崩れるようにその場に蹲ってしまう。両手で顔を覆い、込み上げる感情を抑えきれずに咽び泣く幸恵に駆け戻り、泰之は落ち着かせようとその背を撫でた。
「……堀本さん? だ………」
大丈夫ですか? そう問おうとし、泰之は続く言葉を飲み込む。悼みの滲む儚い印象しかなかった幸恵がこれ程激しく感情を表しているのだ。原因がなんであったとしても、簡単な慰めや問う言葉を投げることはおろか、触れることさえ躊躇われる。
それでも泰之は一度きつく唇を引き結び幸恵の傍らに膝を突くと、震えるその肩をそっと包むように引き寄せた。
そうしてどれ程の時間が過ぎただろう。周囲は徐々に夕刻の気配が忍び寄り、他の観光客もすっかりいなくなってしまった。波の音だけが変わらずその場を静かに包んでいる。
涙が枯れる程に泣き続けていた幸恵もなんとか落ち着きを取り戻し、今はただぼんやりとその場所に座り込んでいた。
泰之は幸恵が落ち着きを取り戻したのを確認し、昨日のうちにまとめて買い込んでいた
ミネラルウォーターを車へ取りに行く為に立ち上がる。踵を返しかけ肩越しに彼女の様子
を確認するが、変わらずその場に座り込んだままだ。
幾分の安堵を覚え、車に向けて足を動かしはじめる。と、その背中に掠れた幸恵の声が触れた。
「北里さん………。すみませんでした。ご迷惑をお掛けして………」
海風に浚われそうなその声に足を止め、彼は幸恵の傍らに戻る。視線を海へと投げたまま、泰之は彼女と視線を合わせることなく躊躇いがちに言葉を唇に乗せた。
「答えたくなかったら、無視してください。………この場所、堀本さんにとってはどんな場所なんですか?」
泰之の問いに微かな笑みを唇に浮かべ、幸恵は緩く頭を振る。ゆっくりと顔を上げ、泰之の横顔へ視線を置いた。
「聞いてくださいますか? けして気持ちの良い話しではありませんけど」
どこか自嘲を含んだ声音で問う彼女に、泰之は前を見詰めたまま小さく頷き返す。それを見て取り幸恵は唇に浮かべた笑みはそのままにゆっくりと語りだした。彼女とこの場所との関係を………。