指先に触れるもの 22

 言い切り、幸恵はそっと泰之の涙で濡れる頬に触れる。不意のように溢れ出した涙は際限なく頬を伝って泰之の膝を濡らした。僅かに首を傾げ、幸恵が笑みを深くする。
「泣かないでください。私は孝造さんにあの人の最期を教えていただいて、助けられました。そして貴方にもここまで連れてきていただいた。………本当は、生きている間に来たかった。でも、意気地がなくてどうしても一人で来る事ができなかったんです。駄目な妻ですね、私は………」
 自責の色を微笑みに混ぜ、幸恵は泰之の頬を伝う涙を指先で掬う。
「今日は私の四十九日なんです。こちらにいられる最後の日にこの場所にくることができて………。最期の心残りもなくなりました。これであの人にやっと会いに行ける」
 いっそ晴れやかに笑い、幸恵は泰之の髪をそっと撫でた。その感触に彼は目を伏せる。喉の奥に幾つもの言葉が張り付き、上手く声にできなかった。自らの不甲斐なさに、両手を体の脇できつく握る。
「北里さん。向こうで孝造さんにお会いすることができたら、伝えますね。貴方がとてもやさしい、いい青年になっていると。ここまで私を導いてくれたと。きっとあの人と一緒にいるでしょうから。一番はじめに伝えますね」
 透明で柔らかな笑みを残し、幸恵はゆっくりと立ち上がった。そして深々と頭を下げる。
 幸恵がゆっくりと顔を上げた時、彼女の体が静かにその輪郭を崩しはじめた。
「あ……、堀本さん! 待………ッ! まだ俺………!」
 喉に張り付く言葉の全てを勢い任せに振り払い、慌てて引きとめようとする泰之に透明な微笑を見せ、幸恵は最期の言葉を唇に乗せる。
「ありがとうございました」
 それを機に、幸恵の姿は完全に景色の中へと溶けていったのだった。

   29

 周囲がすっかり夜の闇に包まれる頃、泰之はゆっくりと立ち上がった。
 止まらなかった涙も今は乾き、泣き過ぎて少しばかりふらつく足に力を込める。この一月半程の間、体にまとわりついていた錘が今はすっきりと晴れていた。
 今ならばあの夢の意味することが判る。泰之はこの場所に幸恵を案内する為にこの地を訪れなければならなかったのだと。それを伝える為に、孝造があの夢を見せていたのだと。すんなりと納得できる。
 ただ一つ、心残りなのは当時の事実に対してあまりにも自分の知識が浅いこと。夢で見ていたあの光景は、これまでに見たフィクションのシーンを無理やりに繋ぎ合わせたようなものだったのだろう。その所為で受け取りきれなかったことがたくさんあるように思えた。
 日本に帰ったら、もう一度きちんと学び直さなければ。それがきっと、幸造の体験と思いを追える唯一の手段なだろう。大事な目標ができた。
 胸に落ちてきたその思いに触れながら、海からの心地良い風に向かい、泰之は日本とは違う色の空を仰いだ。
「じいさん、俺、ちゃんと役目果たせたかな? ………今はこれで良かったんだと、思ってもいいかな?」
 答えの返らない問いを唇に触れさせ、彼は大きく伸びをする。名残惜しいような不思議な愛着をこの場所に感じながら、ゆっくりと駐車場へ向けて踵を返した。
 明日には日本へ帰る。その前にホテルへ戻ったら心配しているだろう夕衣へ電話を入れようか。一人で勝手に旅行をしていたと正直に話したら、彼女は怒るだろうか。
 今はそれでも良いような気がした。泰之にはこれからまだまだ埋め合わせをする時間がいくらでもあるのだから。夕衣の不貞腐れ顔を想像し、彼は小さく笑みを漏らした。
 日本に帰ったら、まずは夕衣を抱きしめよう。不貞腐れ顔を晴らす為のプレゼントを忘れずに買って。それから少しだけ彼女を驚かせる仕掛けもあったら、あっさり許してくれるかもしれない。
 そんな事を考えながら、彼は一度も振り返ることなく潮風に包まれるそこを後にしたのだった。

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