指先に触れるもの 7

「………こんばんは」
 躊躇いの響きを残しながら、半ば義務感で泰之は挨拶を返した。今回は純粋に観光が目的でこの地を訪れたわけではない彼は、他者との接触を意識のどこかで避けていたのだろう。自問や溜め息以外で言葉を唇に乗せたのが随分と久し振りのように感じられた。
 そんな彼の様子には気付かず、女は僅かに首を傾げる。言葉を続けた。
「ごめんなさい。声を掛けてはご迷惑でしたか?」
 打ち寄せる波のような柔らかな声音。心地良く耳を刺激する女の声に、泰之は一度瞬き小さく唇を舐めると口を開いた。不思議な緊張が彼の意識に触れる。
「別に………。なんとなくここにいただけですから」
 目を逸らし、泰之はそんな言葉を女に返した。旅行の同行者でもなければ、偶然この場で顔を合わせた同じ日本人、というだけで正直な答えを返す気になれず、泰之はそんな答え方をする。
 彼のその言葉にどこか拒絶の色を感じ取ったのか、女は淡い笑みを申し訳なさそうに収め丁寧に頭を下げた。
「すみません、貴方の時間をお邪魔してしまったようですね」
 さらさらと女の肩から滑り落ちる髪をなんの気なしに見やり、泰之は改めて女を見つめる。いくら南国とはいえ幾分今夜の気温には薄着に感じられる、シンプルな白のワンピース。足元は華奢なデザインのこれまた白いミュールだった。
「いや、別に謝ってもらうようなことじゃないし。………ああ違う。そうじゃなくて!」
 ゆっくりと顔を上げた女にとっさにそっけない言葉を返してしまった泰之は、雑に前髪を掻き上げ女と正面から視線を合わせる。深呼吸し改めて口を開いた。
「その。俺、うまく言えないんだけど、イライラしてて。貴女に謝らせるような言い方して、俺の方こそすみません」
 言い、頭を下げた泰之に軽く目を見開き、女は小さく笑みを漏らす。女の反応に戸惑った表情で泰之は顔を上げた。
「ごめんなさい、そんな丁寧に返されたのがはじめたなもので」
 困ったように眉を寄せ、彼がはじめに見た淡い笑みを浮かべる。女はぶしつけでない程度に泰之と真っ直ぐ目を合わせ、軽く肩を竦めた。
 その様子に泰之もほっとした様子で笑みを浮かべる。
「良かった。あー……っと、あの。なんでこんな時間に一人でここに?」
「ええ、ホテルの窓から外を眺めていたら急に海が見たくなってしまって。それでここを歩いていたんです」
 笑みを深くし、女は泰之の宿泊するホテルを指して答えた。
「それでって。ここ日本じゃないんだし、流石に一人でなんかで歩いたら危ないんじゃ?」
 幾分の呆れを滲ませて答えた泰之に、女は小さく笑みを漏らして頷く。
「そうですね。気を付けます。私はもう戻りますが、貴方は?」
 投げかけられた言葉に少しばかりの迷う沈黙を挟み、彼は肩を竦めて答えた。
「俺ももう戻ります。こんな暗くちゃ散歩もする気にならないし」
 その言葉に小さく頷き、女は視線で泰之を促すと先に立って歩きはじめる。そのすぐあとについて足を動かしながら、彼は体の中に巣食っていた気分の悪さが消えていることに気付いた。
 前を歩く女の海風と戯れる長い髪を見詰めながら、彼は安堵の滲む吐息をそっと零したのだった。

   9

 ホテルのロビーに着いた二人は、自然と外への扉近くに置かれたソファに歩み寄った。
「私は少し、ここで過ごしてから部屋に戻るつもりです。貴方はどうなさいますか?」
 泰之を振り返り女が問う。その言葉に、思い出したように泰之の腹が自己主張した。その音に女が小さく笑いを漏らす。
「あ、と………。夕飯の時間、うっかり寝てて、それでタイミング逃してて。そこで食べてから戻るつもりです」
 我ながら言い訳がましいと恥ずかしくなりながら、泰之は誤魔化すように雑に髪を掻き上げた。変わらず笑みを浮かべて彼の答えを聞いていた女は、頷き返し思いついたように声を上げる。

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