白い帳
望むものがあるならば、その帳の向こうへ行けばいい。
眼前に広がる、地表を漂う湿気を帯びた白い帳を見詰め、彼女はどこか吐き捨てるようにそんな事を言っていた。それがいつ、どんな話をした後であったか。記憶は靄の向こうに目を凝らすような曖昧さで私の気持ちを掻き乱す。あの時私は彼女になんと答えたのだったろう?
(思い出せない………)
遠近感を曖昧にさせる帳の向こうはどうなっているのだったか。視界遠くには雑木林らしきものは見えるが、その手前になにがあったのか、どうしても思い出せない。開発途中の更地であったような記憶もあるが、それは数年前のもの。それとも、ここではない別の場所であったか。
ここへ辿り着くまで、随分と彷徨ったような覚えはあるが、知っているはずの場所をどう辿ってきたのか、全く覚えていないのだ。
(困った、状況なんだろうな、きっと)
口の中で声になりそびれた言葉は、抑揚や感情といった当たり前にあるはずのものを何処かに置き忘れてきている。異様な渇きだけが口の中に広がっている。
水が飲みたい………。
不意に浮かんだはずの感情は意味のない残響として私の中に響いただけだった。
踵を返して歩き出せばそれ程歩かずとも人のいる場所へ行けることはわかっている。けれどそれは私の中に選択肢として存在していない。
そもそもどれだけの時間を歩き回ったのかさえ覚えていない。
あれ程縛られていた時間が消えている。
(………望むもの、か)
不意に、奇妙な程鮮明に、彼女の言葉が耳の奥に響いた。あの言葉の後、彼女はどこへ行ったのだったか。思い出せない。あるはずの記憶が辿れない。
望む、もの。
乾き切った口の中に言葉を繰り返してみる。
足が、動いた気がした。語弊があるかも知れないが、気がしたという程度の感覚。
望む、もの……。
ざりり、と口を通して足の裏に砂利の感触があった。目の前の帳が近付いてきた気がする。
ざりり、ざりり…。
ゆっくりと腕を伸ばせば、帳が含む湿度に触れた気がする。
ゆくり、ゆっくり。映画のスローモーションでも見ているように私の視界は白い帳でいっぱいになって行く。すべてが曖昧になって行く感覚が心地良くて、やっと安心できるモノに包んでもらえた、そんな安堵感に知らず、吐息が零れていた。
こんな安堵感はいつ以来だろう?
いつの間にか砂利の感触はなくなっていた。その代わり、いつの間にか軽く体が沈むような不安定さが膝に伝わってくるようになっていた。
(ああ、気持ちいい)
帳の向こうに人影が見える。あの輪郭は誰だったろうか。
ああ、その隣にも知っているはずの誰かの影。
なんだ、みんなここにたのか。道理でどこを探してもいないわけだ。
待ってね、私も今そっちに行くから。
忘れていたはずの笑みを浮かべている自分を感じた。
簡単なことだったんだね、彼女が言っていたことは。
もっと早く気付けたらこんなに疲れることもなかったんだ。
もっと、もっと早く…気付けていたら……。