幻想の雫

 細く背の高いグラスの中ではじける泡。彼の鼓膜に微かに触れるその音は、どこまでも澄んでいながら……それでいて秘密めいた艶を含んでいた。
(まるで女だな………)
 胸中に零した言葉には、はっきりとした対象があるのか否か。つかみどころのない笑みを唇に触れさせ、彼はそっとグラスを持ち上げた。目の高さにまで掲げられたそれは、静かなその上下運動にも幾分騒がしく弾ける。
 ほんのりと色付いた淡い花色の雫は、柔らかな香を纏って彼を手招いてみせた。茶の衣を纏ったほろ苦い客人を供に、花色の雫は彼の鼻腔をくすぐる。
 砂時計の砂がさらさらと流れるような、穏やかで静かな時間が彼の周囲を流れて過ぎた。心地良いその沈黙は、舞い散る花弁に触れて地へと誘われる。
 その様に目を細め、彼はそっとグラスの縁にその形の良い唇を触れさせた。傾けられたグラスから流れる雫。微かに上下した彼の喉を伝い落ちるのは花色の雫か、舞う花弁か。
 時ばかりが柔らかく流れ、彼の意識をやんわりと捕らえた。
(さあ、春の宴をはじめるとしようか。今宵は客人も訪なう。常よりは幾分、楽しめるであろうな)
 胸中に落とした言葉は、彼の期待と密やかな興奮を微か滲ませる。どこからともなく訪れた風に誘われるように、彼はグラスに残った雫を静かに喉へと流した。
 一つ静かに瞬き彼は今宵訪れる客人をもてなす為、飾られた広間へと足を向けるのだった。

#小説

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