白い闇の行方
照明の絞られた幾分煙たい気配を覗かせたバーのカウンターで、境信彦と春間美月は言葉少なにグラスを傾けていた。
夜中に呼び出しておいてッ!
カウンターに着くなり信彦を詰った美月はそれから、ぽつりぽつりと聞きたくもない話を信彦から聞かされていた。
時折信彦のグラスの中で氷が踊り透明な音を響かせる。そのグラスを手に取り信彦は、機嫌のよろしくないらしい美月を視線のみで振り返った。
「まさか、あいつがねぇ? 意外だったのはお前だけじゃないぜ、美月」
薄い笑みを口元に漂わせながら言葉を投げた信彦に、美月はきれいに整えられた眉を顰める。きつめの目元が悔し紛れのような苛立ちを漂わせていた。
「……そうね。あの人のそんな姿、知ることになるとは思ってもいなかったわ」
素っ気無く、けれどどこか吐き捨てる色を拭えないまま美月が言葉を落とす。それに口元へ浮かべた笑みをそのままに、信彦は少しばかりからかう気配を覗かせて言葉を投げた。
「ああ、自分以外が隣に並ぶなんてってことな?」
「………ッ」
途端、美月は意識を叩く苛立ちに任せ信彦を鋭く振り返る。美月の視線を頬に感じながら、なんでもないことのように信彦はグラスをコースターの上に置いた。彼を睨むその視線に毒さえ含ませ、唇へと浮かべた彼女の笑みは鮮やか。
「余計なこと言ったか?」
悪びれた風もなく信彦が投げた言葉に、彼女はスツールから勢い良く立ち上がった。ハンドバッグを手に取り、苛立ちも露なきつい視線を振り返った信彦に真正面から叩きつける。そして、カウンターに置いたままだったメンソールの煙草を取り上げた。
「悪いけど私、これ以上あの人の話しに付き合えるほど暇じゃないから」
視線を合わせたまま告げ、当然のことのように踵を返す。その腕を取って引き止め、信彦は変わらぬ笑みで言葉を続けた。
「あいつには本気だったんだな。美月でも」
試すように言葉を投げれば、美月はその手を乱暴に振り解きそれまで以上のきつい視線を叩きつける。
「関係ないでしょ?」
吐き捨て、今度こそ店の入り口へと足を向けた。その背を見送りながら信彦は、微かな笑みで喉を鳴らす。それは周囲の静かな会話に溶け、辺りに滲んだ。
一人グラスを傾け琥珀色の酒を喉へと流し込む。滲むような微かな酔いの、意識に触れる感触に一人軽く息を吐き彼は置き去りにされた美月のグラスを見るともなしに見やった。
(なに考えてたんだか? どいつもこいつも………)
胸中に言葉を落し、組んだ手へと視線を落とす。
その脳裏に浮かんでいるのは、つかみどころのない印象の一人の男だった。鮮やかな笑みと軽やかな言葉。女好みの口当たりの良い会話に、性別問わず惹かれるだけの容姿を持つその男は、今は遠く離れた地にいるのだろう。
(結局俺も、ある意味で置いてかれたってことだな。………そんなに信用なかったか? お前にとっては)
弄ぶ言葉に浮かぶ苦笑。しかし次にグラスを傾ける頃にはその苦笑も酒に溶け飲み干せてしまうだろう。
(本当、お前は最後まで本当に肝心なものは彼女以外には見せなかったんだな)
小さく息を吐き、信彦は取り上げたグラスを手の中で揺らした。その淵で跳ねる絞られた照明が彼を嘲笑う。
脳裏に浮かぶ男の顔を消すようにグラスを干し、信彦は微かな酔いを連れてスツールから立ち上がった。カウンターの中を歩み寄ってきたマスターに、財布を出す手間を惜しみカードで支払いを済ませる。
バーを後にした信彦は、忙しく流れ行くような雑踏の中をゆっくりと足を動かしはじめた。大通りまでは少しばかり距離がある。
今更終電間際の電車に乗る気にもなれず適当にタクシーを探すことに決め、思考を遊ばせたまま緩い足取りで降り注ぐ人工的な光の雨の中を泳いでいくのだった。
信彦には苦笑を、美月には苛立ちを残して消えた男の名を、瀬崎貴掉(せざき きじょう)という。
彼の素性を知る者は皆無ともいえるほど、信彦の周囲にはいなかった。どこに住んでいて、どんな職業についているのか。家族構成も出身も。そういったことは一切、あの時まで貴掉本人の口から語られることはついになかったのだ。
信彦が貴掉と出会ったのは、先程までグラスを傾けていたバーでのこと。会社の同僚に連れられて週に二、三度のペースで飲みに行っていた十年程前。やけに華やかな雰囲気の女と飲みに来た貴掉を信彦が見掛けてからだった。
不定期に週一度程度のペースで見掛ける貴掉は、その度に違う女を連れていた。信彦同様、貴掉を印象に残していたらしい同僚の
「男はやっぱ顔かよ?」
という微かな嫉妬を含んだ言葉が脳裏を掠め、彼は小さく苦笑を漏らす。その時は同僚の言葉を否定してみせた信彦だったが、貴掉を見掛ける度に同僚の言葉が否定できなくなった。実際、貴掉は隣に並ぶ女の誰よりも目を惹く華やかな容姿をしていたのだ。
けれど、そんな外見を裏切るように貴掉の目に笑みが浮かぶのを信彦は見たことがない。表情こそ柔らかく笑みを形作っていても、その目にあるのは冷めきった起伏のない無表情という色だった。
まるで感情というもの自体がはじめから備わっていないのではないか、とそう思わせる程にその目は色を変えることが無い。
その表情があまりにも印象に残り信彦は数回、同僚を誘わず一人でバーへと通った。そして運良く彼は一人で飲みにきていた貴掉に話しかけることができたのだった………。
「失礼? 相席、構わないかな」
その日は幸いバーの少ないテーブルはいつになく埋まっている。それを好都合と、信彦はカウンターで一人グラスを傾けていた貴掉へと話し掛けることができた。彼の言葉に微かな訝しさを浮かべたものの、周囲へと視線を走らせた貴掉が納得したように頷き返す。
軽く驚いた表情を作った貴掉は、しかしすぐに薄い笑みを唇に浮かべ手荷物をカウンター下にある荷物置き程度のボックスへと移動した。
「どうぞ」
軽く頭を下げた信彦に貴掉は身振りで傍らのスツールを示す。それへと早速腰を落とし、信彦はマスターへとお気に入りの酒をリクエストした。
「ここへはよく?」
グラスがコースターと共にグラスが置かれるまでの僅かの間、カウンターへと予め手に持っていた煙草を置きついでのような口調で言葉を向ける。それに薄い笑みを浮かべ貴掉が頷いた。
「まぁ、それなりといったところかな? 居心地が良いんでね」
半分ほど中身の減ったグラスへと手を伸ばしながら貴掉が答える。それに頷き返し信彦はパッケージから煙草を引き抜いた。オイルライターを手の中に遊ばせながら、横目に視線を向ければ貴掉はグラスに口を付けるタイミング。
「確かに。ゆっくり酒を楽しむには向いた場所だ」
「ありがとうございます」
グラスを信彦の前に置きながらマスターが静かな言葉を挟んだ。それへと笑みで返し再び貴掉へと意識を戻す。
静かな気配を纏う貴掉はグラスへと視線を置き緩やかにひとつ瞬いた。
「酒は非現実を作り泡沫の夢を作る。そんなところかな? ここはそれに向いている場所だからね」
つかみどころの無い笑みを唇に浮かべ、貴掉は軽くグラスを回す。その言葉に信彦は驚きに軽く目を見開き、貴掉の横顔を見詰めた。頬に当たる視線に振り返り、貴掉は問う視線を投げる。
「………失礼。言葉を扱い慣れているようで」
不思議に居心地の悪さを覚え、信彦は少しばかりぎこちなく視線を逸らした。間を繋ぐようにオイルライターで煙草へと火を点ける。
「多少は」
短く言葉を返し、貴掉は再びグラスを傾け静かにその中身を減らした。
(女相手にってことか? それとも別で?)
胸中に探る言葉を落とした信彦は、鮮やかというに相応しい貴掉の外見を視線でそれとなく探る。その容姿から職業を推測することはできないが、少なくともただのサラリーマンというわけではないようだ。
沈黙が降り、周囲の静かな会話が思い出したように耳に届くジャズのBGMへと小さな花を添える。時間の流れが緩やかに感じるその空間は、信彦の胸に浮かぶ探る言葉を静かに包み輪郭を曖昧なものへと変えていった。
「張り詰めた時間も大事だろうけど、弛緩と休息、緩やかな時間はヒトには欠かせないものだから。………この場所はそれを提示してくれる」
ひらひらと舞い落ちるような言葉をその唇から紡ぎ、けれど感情の見えないその目は形ばかりの薄い笑みを刻む。そのギャップに僅かの酔いに似た眩暈を覚えながら、信彦は引き寄せた灰皿で半分ほど灰に変わっていた煙草を揉み消した。
グラスへと手を伸ばし、包むように取り上げるとそっと唇へ運ぶ。一口含み、そっと零すように喉へと流した。頭の中では貴掉の言葉が巡っている。その意味を求めるように転がしながら信彦は数拍、沈黙を流した。
「……面白い人だ」
貴掉の雰囲気に飲まれながら、信彦は意味を成さない言葉をその唇に乗せる。貴掉の使う言葉の前には、随分と自分の印象が希薄に感じられてならなかった。それは今までこのバーで見掛けた時の貴掉の印象も手伝っているのかもしれないのだが。
タイミングかもしれないが、そうではないという奇妙な確信が胸に浮かんでいた。そして体温を感じない貴掉の気配が、彼がここに存在する人間だという認識を薄くする。まるで実体のない幻と並んでグラスを傾けているような錯覚は、信彦の中で眩暈を強くした。
その眩暈の中で信彦は、貴掉との幻覚のような会話を途切れ途切れに続けながら長くも短くも感じる時間を心地よい酒の味と共に過ごしたのだった。
大通りで拾ったタクシーのシートに埋もれながら、信彦は貴掉とのファーストコンタクトをぼんやり思い出していた。唇に薄く浮かんだ笑みが微かに喉を震わせる。
面倒くさそうに前髪を掻き上げれば、その目に映るのは人工物の光とその中を泳ぐように歩く人々の姿だ。
(あれがはじめての会話だったんだよな………)
ぼんやりと胸中に言葉を落とし、信彦は信号で停止したタクシーの前方へと視線を投げる。今まで幾度も眺めたはずの景色が、奇妙に歪んで見えた。
それは流れる時間の中で友人と思っていた貴掉が姿を消し、一人取り残されたような錯覚がそう見せているのか。
貴掉という存在を知るまでは感じることのなかった錯覚に、信彦は一人苦笑をその視線に滲ませるのだった。
相席を理由に貴掉と言葉を交わしてからというもの、信彦はあのバーで貴掉と話す機会が増えていった。
時に貴掉の連れである女を交え、時に二人で。中身のない世間話から、貴掉の持つ独特のセンスが作る、酔いを誘発する言葉の連なりまで様々な事柄を酒と煙草を片手に持って。ひらひらりと。
そんな時間の共有を重ねる度に、二人の口調は互いにラフなものへと変わっていった。
そうして二人の関係が友人といえるだけの距離になって久しく経った時。貴掉が続けてこのバーへ連れてきた女が美月だった。
当然のように貴掉の傍らに添い、貴掉が紹介するよりも先に恋人だと自己紹介をしてみせる。美月は女として嫌味なほどの自信を容姿からも、表情、仕草からも滲ませていた。
大抵の場合、そのタイプの女を煩わしがる傾向のあった信彦だが、美月に対しては好意的な印象を受けた。あまりにもその立ち居振る舞いが板につきすぎていた所為もあるのかもしれないが。
いつであったか。貴掉と二人で会った時に、何故美月を恋人に選んだのかと聞いたことがあった。それに対して貴掉は躊躇いもなくこう答えた。
「彼女がそれを望んだからね」
と。大したことでもないようにあっさりと。
はじめこそ信彦はそんな貴掉の答えに呆気に取られた。けれどその言葉は物事全てに対して執着というものを感じさせない貴掉の雰囲気そのものに感じられ、笑って流した記憶がある。
信彦の目には美月の一方的な執着で続いていた一見穏やかな恋人関係は、けれど一人の女が現れたことによってあまりにもあっさり崩れたのだった。
ある晩。貴掉は美月ではない女を連れてあのバーを一月振りに訪れたのだった。
「美月は?」
それまでが当たり前に貴掉と一緒にいた美月の姿がない。そのことに違和感を覚えた信彦は軽く目を見開いた。
「いや、いいんだ。もう彼女はね」
うっすらと笑みさえ漂わせ、貴掉が躊躇いも執着の欠片もなく答える。その答えに信彦は答える言葉を見失った。貴掉らしいと言ってしまえばそれまでなのだろうが、そう言い切れないなにかがそこにはある。
それより、と今まで感情の動きを見たことのなかった目に穏やかな笑みを湛え女の腰へ腕を回すと当然のように引き寄せた。その仕草に抵抗なく従い信彦の前に進み出た女は、あっさりとした声音で信彦に向かう。
「久松秋乃です。貴方のことは貴掉の友人と聞いてます」
女の言葉に曖昧に頷くものの、信彦の内心は生まれたいくつもの疑問で埋め尽くされていた。
美月はどうなったのか。この秋乃という女は何者なのか。それ以前に信彦の知る貴掉と反応が全く違う。どこでどのようにこの女に出会い、何故ここに連れてきているのか。会わなかった一月の間、一体なにがあったのか。………。
順序だとか内容だとか。そういったものを無視した言葉が思考を埋め尽くしてしまい、信彦は言葉をまとめることができなかった。
けれどそんな信彦の内心の混乱など知らぬ風に、秋乃は穏やかな笑みを彼に向ける。そうすることが当然であるかのように。ごく自然に。
困惑を隠せないまま言葉を探す信彦の沈黙をどう受け取ったものか、秋乃は僅かに首を傾げ変わらぬ笑みで言葉を投げた。
「どうかしましたか?」
その声で我に返った信彦は、慌てて取り繕うように笑みを返す。ぎこちなさは自覚の上で貴掉と秋乃の二人をカウンターの席に促した。
「いや……とりあえず、座ろうぜ。貴掉とも久し振りだしな、ゆっくり話したい」
「そうだな。一月振りか? 信彦とは随分長く会ってなかった気がするよ」
信彦の言葉に頷き、貴掉は隣のスツールへと腰を落としながら秋乃を促す。甘い笑みを浮かべ頷き返した秋乃は、テーブルの下にハンドバッグを置いた。それを視線の端で確認し、貴掉はマスターを視線で呼び秋乃と二人分の酒をリクエストする。
二人の酒が差し出されるまでの僅かな間を埋めるように、信彦はパッケージから引き抜いた煙草を咥えた。火を点け一口目を深く吸い込む。濃い煙が肺を満たし、僅かな間を置き薄く開いた唇から細く零れていった。
それはまるで彼の溜め息のようで、ふわふわと視界に白く漂う。その行方を見るともなしに眺め、信彦は貴掉へと視線で話を促した。
その視線に微か頷き返し、貴掉は一度秋乃へと視線を向ける。数秒、彼女と視線を合わせた貴掉は一つ瞬き小さく唇を舐めた。静かに流れる時間に滲む穏やかな沈黙。それを作るのは貴掉と秋乃の二人だ。信彦の中には渦になった疑問ばかりがある。
その沈黙に訪れたのはマスターがグラスを置く音だ。どこか柔らかく響いたその音を機に貴掉はゆっくりと秋乃との出会いを唇に乗せた………。
それは信彦とこのバーで最後に会った翌日の晩のこと。
ほぼ毎日のように繰り返される美月との時間をやり過ごした帰り、貴掉は惰性のように車を走らせていた。
美月と会うのは決まって彼女の自宅。時に貴掉の予約するレストランかシティホテルと決まっていた。美月と付き合っている間、一度も貴掉は自宅に彼女を呼んだことがない。彼女へは家族と同居しているから、と説明してはいたがそれは事実とは反していた。
極端に他人を自宅に招くことを嫌う貴掉は、それまで一度も例え恋人であっても自宅へ招いたことはない。
そんな貴掉の行動が美月には不満であったようではあるが。口調だけは柔らかく貴掉が拒否し続けていた為、結果的に最後まで彼女は貴掉の自宅を訪れることはなかった。
そんな飽くほどに同じことを繰り返していた毎日を崩したのは、ふらりと立ち寄った自宅近くのコンビニでのこと。そこで秋乃と出会ったのだった。
思い出したように酒を飲みたくなり、貴掉は自宅まであと十数メートルという場所にあるコンビニへの駐車場へと車を入れた。エンジンを切り、財布だけを手荷物から取り出して車外へ出る。途端、彼の体を包んだ夜の気配はひどく暖かく感じられた。
軽く滲ませた溜め息に一日の灰汁を吐き出し、貴掉はドアをロックし入り口へ向けて足を動かしはじめる。比較的頻繁に使うこのコンビニの陳列棚は、ある程度把握していた。頭の中に浮かぶその視界を見回し、目当ての棚の位置を確認する。
そんな貴掉の意識を不意に引いたのは、店内照明から少しばかり外れたところに蹲る秋乃の姿だった。
つられるように振り返ったそこで、彼女は流行のコーディネートに身を包みぼんやりと通りを眺めている。誰かを待つ風でもなく、誰かと別れたばかりという風でもなく。ただそこに蹲っていた。
普段から他人への執着を持つことのなかった貴掉は、それでも思いがけず意識を引かれた秋乃へと視線を残しながら足は店内へと向ける。
どこか寂しそうにも見えるその秋乃の背中が、妙に印象に残った。
(すぐにいなくなるだろうな………)
何気なく胸中に言葉を落とし、貴掉は買い物を済ませるべく自動ドアをゆっくりとくぐる。真っ直ぐに目的の棚へ向かえば、そこにはお目当ての品があった。それを確認し窓際の雑誌コーナーへと足を向ける。
どれを手に取るでもなく、雑誌のタイトルと表紙に派手な色を飾る見出しを丁寧に一つ一つ眺め軽く息を吐いた。
(全く………リサーチは欠かせないとはいえ、ここまでくれば職業病も極まれり、だな)
苦笑を胸中に落とせば、頼んでもいないのについてくる軽い脱力感と苦笑を誤魔化すように伸びてしまったままの前髪を掻き上げる。
周囲に悟られることは滅多にないが、基本的には他人との接触を苦手にしている貴掉だ。仕事の中では嫌でも周囲を気遣い、その対応に笑みを浮かべねばならない。
それならばせめて一人になれるささやかな時間には誰とも会わず、誰にも気を使うことなく過ごしたかった。
今の仕事をはじめて一年ほど経った頃からだったろうか。貴掉はそれ以前からの人に対しての執着のなさに輪をかけて、完全に一人になれる短い自宅での時間の中では他人を避けるようになっていた。
美月も含め、その時々を過ごした恋人やそれ未満の女はいたが貴掉はその誰一人として自宅に招いたことはない。それどころか、どこに住んでいるのかという事さえ話したことはなかった。話せば不意打ちでの訪問もありうると考え、それを避ける為に………。
緩く思考を遊ばせながら、貴掉は一通りの雑誌を視線でなぞり踵を返した。本来の目的であった酒の棚へと足を向け、目当てのボトルを取り上げる。それを手にレジへ向かえばマニュアル仕様の店員が愛想良く会計を読み上げた。
味気ない会計を済ませ、つり銭を受け取ると溜め息の滲む足を駐車場へと向ける。
………と。先程の位置に蹲ったままの秋乃を見付けた。相変わらずぼんやりとした視線を通りへと投げ、根が生えたようにその場に蹲っている。
そんな秋乃へと興味を惹かれないといえば嘘になるが、声をかけるほどの思い切りも浮かばなかった。けれど彼の意識に反し視線は秋乃の上に残る。機械的な仕草でドアロックを解除し運転席へと滑り込んだ。
一連の動きのままにエンジンを掛け、ハンドルを握るが………。どうしても視線を完全には秋乃から離すことができず、そんな自分を助手席に無造作に置かれた煙草へと手を伸ばした。意識してゆっくりと火を点け、一口目を軽く流す。
視界に漂う白煙を意識の端に引っ掛けたまま、貴掉は軽く溜め息を落とした。
(なにを、しているんだ………? 俺は)
胸中に落ちる疑問。けれど体は当然のようにドアへと手を掛け、気付けば車から降りていた。
背でドアを閉めてそのまま寄り掛かりながら、秋乃の視線の先を振り返る。そこには無造作なほど当たり前に行きかう車の流れがあった。思い出したようにこちら側を、道路を挟んだ反対側の歩道を急ぎ足に過ぎていく夜色を纏った人の姿。
なんの変哲もない静かな夜の気配は、彼女とそして貴掉を時の流れから置き去りにしたようにそこにあった。
(流れる時間の中でジャンプでもしてるみたいだな。この世の誰にも、本当に必要とされてないからか?)
苦笑が唇に込み上げる。思い出したように手足に絡みつく疲労がそう感じさせるのか、貴掉は胸中に言葉を漏らした。それがあながち外れていない彼の現実。過去の中に置き去りにしてきた止まった時が苦笑の色を濃くしていた。
不意に遡りはじめた記憶が、現実というスクリーンの上に重なって見える。黙って立っているだけでも時というエスカレーターに運ばれていく感覚が、意識を縛っていた。
けれど彼の中の時はある一点で止まっている。そう、まるでそのエスカレーターの上でジャンプでもしているかのように。
記憶を遡りながら秋乃を眺めていた貴掉は、唐突に納得した。何故、ただそこに蹲っているだけの秋乃に視線を引かれたのか。その理由に。
彼女の纏う気配は、その目に映る掴みどころのない色は。貴掉の抱える感覚と同種のものだったのだ。時の中に置き去りにされ、それでも日常という流れに否が応にも運ばれていくその虚脱感が似ているのだ、どこまでも。貴掉と秋乃は。
気付いてしまった貴掉は、誘われるように秋乃へと足を進めた。ゆっくりと、しかし確実に。距離を縮めていくその感覚がひどく心地よく貴掉の意識に触れた。眩暈のような甘い感覚に従い貴掉は彼女の傍らで足を止める。そして気付いた時には、秋乃へと声を掛けていた。
「………失礼」
ゆっくりと秋乃の視線が貴掉へと向けられる。どこか訝しげに。けれどその視線は歪められることはなかった。その色を見て取るなり胸中に浮かんだ安堵で震えそうになる声へと力を込め、彼女の視線を受け止めたまま貴掉は唇へと言葉を押し上げる。
「貴女もなにか、過去に失くしてきたモノがあるんですね? 大切なものを………」
まるで暗号のようなその言葉に、秋乃は小さく首を傾げた。数拍の沈黙を零し、彼女はゆっくりと立ち上がる。その視線は驚きの色を浮かべ、彼の視線を真正面から捕らえた。
「………あの。貴方、も……?」
言葉と同時に秋乃の目から拭われる訝しげな色と、それに変わって広がる安堵。大切な鍵をようやく見付けたようなそんな色がたちまち広がっていった。
ふらりと秋乃の足が動く。一歩、二歩………と足を引きずるように貴掉へと歩み寄る秋乃は彼の真正面で足を止めた。
至近距離で視線が絡み合う。二人の上に降る沈黙は、どこまでも穏やかさだけがあり周囲の全てを遠くにしていった。
そうして視線を絡ませたままどれだけの時を過ごしたのか。そっと、貴掉が秋乃へと手を差し伸べた。
「貴女となら、この疲れを癒せる気がする。一緒に来てくれないか?」
胸に浮かんだ言葉を素直に唇に乗せた貴掉に、秋乃は今にも消えそうなくらい儚い。けれど真っ直ぐでどこか強さの窺える視線で頷き返した。
「はい………」
答えながら秋乃は貴掉の手へと己のそれを重ねる。そのほっそりとした手を、確かに貴掉が受け止めた。
互いの目に自然に浮かぶ笑み。それが静かに表情へ、纏う雰囲気へと広がっていく様がやさしく周囲の空気を震わせた。
「行こ………。と。その前に名前、聞いてなかったね」
手を繋いだまま秋乃を車へと促しかけ、貴掉は苦笑交じりに秋乃へと名前を問う。そんな貴掉へと小さく笑みを零し、秋乃はそっと貴掉の胸に擦り寄った。
「久松秋乃。貴方は?」
心地よい秋乃の体温を確かめるように繋いだ手を離し、その背へと腕を回す。そうして華奢な引き寄せた体をしっかりと抱きしめ、貴掉は秋乃の耳元へと答えを落とした。
「俺は……瀬崎貴掉だよ。これからよろしく」
貴掉の言葉にくすぐったそうに頷き返し、秋乃は安堵の長い溜め息を一つ落としたのだった。
それからの一月、貴掉と秋乃の二人は互いが傍にあることが当然のように時間を共に過ごした。昼は貴掉がそれまで通り仕事へ向かい、秋乃は家で少ない家事をしながら過ごす。そして夜には真っ直ぐに帰宅する貴掉と食事を取り、互いの存在を確かめ合った。
秋乃に触れる度、貴掉は自分の存在を手繰り寄せ確かめるように彼女の腕に溺れる。それは秋乃も同じであり、貴掉の腕にまどろみながら過去という数多の傷を一つ一つ癒していった。
出会ったことが必然であり、その理由はどうでもいい。
そう思えるだけの深い安堵と癒しに包まれながら、二人は互いだけを求めて時を重ねた。重なり合う影も、求めることの必然も全てが愛おしくて堪らない。失くした感情は肌を、熱を重ねる度に修復され、全てが二人を現実へと再構築していく。
秋乃と出会った翌日、美月から届いたメールに二度と会うことはない、と返信した貴掉はそれきり美月とは連絡を絶っていた。
貴掉にとって美月との関係は、彼女からの一方的な感情の上に成り立っていただけのもの。貴掉が求めるものを美月は持ち合わせていなかった。
けれど今は……秋乃という、はじめて彼自身が求めた存在が傍にある。それだけで貴掉にとっては十分だった。いや、十分過ぎるくらいだった。そして秋乃もまた、貴掉と同じ想いをその胸に温めている。
心地よい温もりを共有したまま、二人は今日、思い出したように外で飲もうと提案した貴掉の言葉でこのバーへと足を運ぶ事になったのだった。
そこまでの話を聞き終えた信彦は、言葉にできない感情を煙草の煙と共に吐き出した。貴掉の言葉はあまりにも現実離れして聞こえる。そしてその言葉で語られた秋乃の存在も………。
けれど二人は確かに出会い、こうして信彦の前にいた。それは否定しようのない現実。
「………いくつか、聞いていいか?」
溜め息混じりの信彦の言葉に、貴掉が横目に視線を投げ頷く。それを確認し信彦はゆっくりと縺れたままの糸を手繰り、言葉を唇へと押し上げた。
「お前と彼女の抱えてた傷、それはなんなんだ?」
信彦の言葉に薄い苦笑を浮かべ、貴掉はゆっくりと氷の小さくなったグラスを取り上げる。澄んだ音をグラスの中で立てる氷へと視線を落とし、貴掉は言葉を唇に乗せた。
「俺の子供の頃のことだ。家族旅行へ行った帰り、事故に遭ったんだよ。その事故で両親と兄貴、妹が目の前で亡くなったんだ。誰も俺の家族を助けてはくれなかった」
無表情とも思える貴掉の言葉に、信彦は息を飲み沈黙する。けれどその表情を貴掉は見てはいなかった。氷に視線を落としたまま言葉だけを続ける。
「それからのことは正直良く覚えていない。高校をでた頃からようやく記憶があるくらいで、事故からそれまでのことはほんのいくつかしか覚えてないんだ。その間に俺は、自分から誰かを求めることはなくなっていた」
いったん言葉を切り、貴掉は氷から目を上げ秋乃を振り返った。その視線を受け、今度は秋乃がそっと言葉を唇に乗せる。
「私、望まれない子供だったんです。私の親にとっては生きてちゃいけない、この世に存在したらいけない子供だった。だから、生まれた病院で置き去りにされて。それからずっと施設育ちです」
貴掉越しに信彦を振り返り、秋乃は泣き笑いの顔で一息に言い切った。まるで途中で言葉を止めてしまえば、感情がとめどなく零れ落ちてしまいそうになるのを押しとどめる為に。
それを証明するかのように、カクテルグラスに添えられた細い指が小刻みに震えている。視界の端にそれを認めた貴掉は秋乃の震えを止めるようにそっとその手に触れた。
静かな温もりが体に流れ込んでくる感触に、秋乃は一度きつく目を瞑り大きく息を吐く。そして貴掉の与えてくれる温もりに助けられ、痛みを堪えるようにそっと言葉を続けた。
「ずっと私は誰も信じられなかった。誰も私を必要としてなくて、誰も抱きしめてくれたことなんてなかった。痛くても辛くても………どんなに悲しくても」
一つ一つの言葉を紡ぐ度、秋乃の表情が泣き笑いのまま強張っていく。その彼女の顔が見ていられず、スツールから立ち上がった貴掉はそっと秋乃の肩に腕を回した。そうすることで少しでも多くの温もりが秋乃へ伝わることを願っているのか。
「それでも回りの子達の真似をして笑ってたんです。だってそうしなかったら私、本当にいらない存在になっちゃうから……。ずっと求めてました。私のことだけを見てくれる人。私の全部を受け入れて、抱きしめてくれる人を」
切望するような震える声で告げた秋乃は貴掉の腕の中、再び大きく息を吐くと更に言葉を続けた。
「それが………貴掉だったんです。貴掉も私と似た傷を持っていて。だから理屈もなにも抜きで惹かれて。………でも、はじめは不安でした。貴掉の存在が全て夢で、私の妄想で。いつか雫になって零れてしまいそうで。でも……それでも………」
「もういいから。秋乃? もういいよ。俺はここにいるから、夢なんかじゃない。大丈夫だから………」
秋乃の言葉を遮り、貴掉は彼女を抱きしめる腕に力を込める。そうすることで間違いなく自分が傍にいるのだと、こうして誰よりも近くで抱きしめているのだと伝えようとしていた。貴掉の伝えてくれるその温もりに、秋乃は頬に大粒の涙を滑らせる。
唇へと薄く冷たい笑みを投げ出し、貴掉は肩越しの視線を信彦へと投げた。そっと言葉を続ける。
「俺も秋乃も、はじめて求めて、それに応えてもらえたのがお互いだったんだ。そういうことだよ。だから恋も愛もゲームに出来る美月じゃ無理なんだ。………秋乃でなきゃ」
静かな、けれどはっきりとした声で告げた貴掉に、信彦は答えるべき言葉を失くした。なにをどう言葉にしても白々しく、そしてあまりにも貴掉と秋乃の置かれてきた現実には遠い。
「そういうことだから。もう多分、二度とここへはこない」
言い切り、貴掉は涙の止まらない秋乃の背を支えスツールから立ち上がった。ついでのように肩越しに振り返り、貴掉は溜め息のような静かな言葉をその唇に乗せる。
「美月に会うことがあったら伝えて欲しい。君がどれほど俺に本気になってくれても、俺は美月じゃ全然足りない。俺が欲しかったのはゲームの恋じゃなかった、とね」
言い切り、貴掉は信彦の答えを待たず足を動かしはじめた。会計を済ませる後ろ姿が、堪らなく信彦の目に切なく映る。
しかし掛けるべき言葉も、引き止める為の言葉も見付けられず。信彦はじっと貴掉と秋乃、二人の背を見送るだけだった。
貴掉との出会いから美月、秋乃という二人の女との出会い。そして全てが奇妙に白い闇の中へと、あまりにもあっさり消えてしまった。その数年という時間をぼんやりと思い出していた信彦は、タクシードライバーから掛けられた声で我に返った。
「お客さんってば。ここで良いんでしょ? 着きましたよ」
その言葉に慌てて周囲を見回せば、見慣れた自宅周辺の景色がある。
「あー………。悪いね、おじさん。いくら?」
取り繕うように小さく笑みを見せ、信彦は手早く会計を済ませた。溜め息を落としながら、タクシーを降りた信彦は早々と走り去っていくタクシー独特のカラーリングを視線の端に追う。
(ま、貴掉も彼女も幸せになってくれりゃ良いか。勿論、美月もな………。あとは俺かー………)
胸中に呟き、信彦は面倒臭そうに前髪を掻き上げた。その唇に浮かぶのは自嘲交じりの薄い笑み。
(俺も負けてらんねぇな。とりあえず嫁さん候補から探すか………っ!)
溜め息混じりに胸中で気合を入れると、ひとまず予定外の時間帯に自己主張をはじめた空腹を宥めるべく、自宅に向けて僅かに歩調を速めたのだった………。