流れる景色に身を任せるのは、やたらに楽な事だった。
 彼は今更のようにぼんやりとそんな事を意識の端に考えてみる。
 しかし反面、彼の歩いたその後にはなにも見付ける事ができなかった。きれい過ぎる平坦な道は、ゴミ一つ落ちてはいない。その代わり余りにもきれいで視界の広いその場所には、面白味もなかった。
 良くも悪くも目立たず、中流と言われる地位に甘んじ。平凡な恋人が平凡な伴侶となり、子供の素行で悩むこともなくいつの間にか孫をその腕に抱いた。その孫も幾人かが結婚し、子供を連れて遊びに来る者もいる。
 そんな彼の人生を、彼の友人たちはよく羨ましがっていた。小さいながらも起業した友人が大変だと嘆きながら。子供の素行で悩んでいた友人が。大恋愛の末に結婚したにも関わらず、数年で離婚してしまった友人が。結婚のタイミングを逃し、生涯を独身で過ごした友人が。
 みな、彼の生涯のどこかを羨み平凡こそが幸せなのだと口々に言っていた。
 しかしどうだろう。彼の歩いた道は無闇にきれいで、面白味がないではないか!
 生涯忘れられない、というような大きな出来事も。今でも思い出し、涙を誘うような記憶もありはしないのだ。
 彼は細く長く息を吐き、自らの歩いて来た道をぼんやりと振り返る。
(次にまた人として生まれ落ちることができたならば………せめて一つでも生涯心に残るような記憶をこの道に刻めないだろうか? たった一つで良いから………)
 胸中に呟き、彼は目を閉じ微かな溜め息を周囲の白に流した。
(そう。せめて一つで良いから………)
 柔らかく。吐息に消えてしまいそうな微かな言葉を祈りのように胸中で重ね、彼は目の前にある窓をゆっくりと閉めたのだった。

 不意に響いた電子音はその場にいる者達に彼の最期を認識させた。
「ご愁傷様です」
 居合わせた医師が脈を確認し、無表情に告げる。不気味な程に静まり返った病室に、無情な電子音が無機質な静寂を投げた。しかしそれもすぐに電源が切られる。
「おじいちゃん、らしいね………」
 彼の初孫に当たる男が小さな画面を見詰めながら、淋しさを滲ませた声で呟いた。その言葉にこの場に居合わせた者全てが小さく頷く。
 そうして家族に見守られる中、彼は一生と言う名の窓を閉じたのだった………。

#小説

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