心の行方

夜に沈む想い

 すぅ、と視界の狭まる感覚に、彼は他人事のように僅かにうろたえた。それはぼんやりと眺めていたはずのマグカップを中心に、周囲の景色がホワイトアウトするような不思議な感覚。まるで加工された画像を嵌め込んだTV画面のようだ。
 平衡感覚までもが曖昧になってしくような、そんな奇妙な感覚に小さく頭を振る。しかし彼の視界は機械的に狭まっていき………やがて上下が反転した。
「………………ッててててて」
 強い力に引き戻されるように、不意に意識が体に収まる。視界の上下が反転したと感じたのはどうやら、受け身もなにもなく勢い良く床に転んだ瞬間の感覚だったようだ。幾度か瞬き、彼は軽く溜め息をかさかさの唇に触れさせる。
 床の上に倒れたままぼんやりと天井を見上げれば、そこにはぼんやりとヤニの色に染まった茶色い天井があった。彼がここに入居した時には白かった記憶がある。
 はじめの頃こそベランダでの喫煙を心掛けていたはずなのだが、いつからこんな風に天井のクロスを染めてしまったのだろうか。
 どうでも良いようなことを思考の中に遊ばせ、彼は呼吸のついでのように溜め息を重ねた。
「………あー……そっか」
 さほど熱心な様子もなく思考をくすぐってみれば、煙草を室内で吸いはじめた原因が不意に思考を叩く。
(………あいつが出て行ってからだ。あれからもう二年だもんなー。天井も色変わるか)
 自嘲に似た苦笑が彼の唇に浮かんだ。
 胸中に落とした言葉が手を繋いで連れてきたのか。彼の脳裏に浮かんでいるのは些細なことが原因で喧嘩になり、身の回りの荷物を詰めた鞄を抱えて出て行ってしまった元恋人の姿だ。
 大きめの目に、くるくると良く変わる表情が可愛くて自分から声を掛けた女。外見こそ誰もが振り返るような美人ではなかったが、彼にとっては愛嬌のあるその表情や仕草が密かな自慢の恋人だった。
 それが………。ぼんやりと将来を考えはじめた矢先、つまらないことで喧嘩となり売り言葉に買い言葉。そんな勢いであっさりと彼の手の届かない場所へ行ってしまった。
「なにしてたんだ、俺は………」
 胸中に落としたはずの言葉は知らず声にしていたらしく、改めて彼の気持ちを溜め息で染める。
「今頃どうしてんだろうなー」
 尻切れに終わってしまった関係に未練を残している自分がいた。それでも今はどこでなにをしているのかも判らない元恋人には、謝る術もなく。彼の中で宙ぶらりんになってしまった感情だけが、溜め息製造機のように緩慢な動きで回り続けていた。
 起き上がるのも面倒になった彼は、フローリングの床に転がったまま腕を目の上に乗せる。中途半端に遊んだ思考が彼の感覚を悪い方へ、悪い方へと手招きしていた。
(面倒くせーなー………)
 手招きに逆らうこともせずにいれば、頭の中が高速と低速を行ったりきたりしながら右に左に揺れる。まるで泥酔したときのような吐き気を誘うその視界は、目の上に乗せた腕に力を込める程度では解消されてはくれなかった。
「………………………はぁ」
 抵抗をあっさりと放り出した彼は、胸に浮かぶ中途半端な未練に力ない溜め息を落とす。頭の中の視界が揺れれば揺れるほど、彼の肌に触れる夜の気配はくっきりはっきりと鮮明な感触を伝えてきた。
(やべぇ、布団まで行く気、失せた)
 胸中に確認するように呟き、彼は今夜で一番長いであろう溜め息を細く吐き出す。
(別に良いか。風邪引こうが熱でようが。明日から三連休だもんな)
 自らに言い訳するように胸中で言葉を落とし、彼は全てを放り出すように全身の力を抜いた。
 途端、彼に擦り寄ってくるのは脱力した眠気の波。緩々と意識に触れるそれに素直に従い、彼は夜の中に燻る未練ともども沈み込むことに決めたのだった。

朝に昇る想い

 夢を、見ていた気がする。それも随分と久し振りにやさしい感触のものを。その内容まではぼんやりとし過ぎていて思い出せないが、確かにそれはひどくやさしく彼の意識を包んでいた。
 朝の光にふわりと立ち昇る様に覚醒へと近付いていきながら、彼は半ば夢の中でそんなことを考える。昨夜は確か、どうにもならない眩暈のような気持ち悪さを抱えフローリングの床で気力をエンプティにしたはずだった。
 それにもかかわらず、体がどこも痛くない。それどころかふわふわと暖かく、自分のにおいがしていた。そう。それは彼がどこよりも落ち着く場所、長年使い込まれた布団のにおいだった。
 それを不思議がる自分が彼の中で首を傾げるが、その疑問以上に彼の中ではこの心地良い浅い眠りに漂っていたいという欲求が強い。そんな彼はあっさりと疑問を放り出し、僅かに体勢を変えただけで再び浅い眠りの中へと意識を遊ばせはじめた。
 途端、どうやら耳元にあったらしい彼の携帯電話がメールの着信を知らせはじめる。流行の曲ではないが、お気に入りの曲が彼を浅い眠りから蹴りだした。
「………なんだよっ! くそー」
 寝起きの掠れた声で文句を落とし、彼は干満に携帯電話を取り上げる。サブディスプレイにはこんな時間に………いや、二度とメールが届くはずがないと思っていた人物の名前がスクロールしていた。
「………………………………ってマジかよッッッ?」
 随分と中途半端な沈黙を挟み、彼は勢い良く布団の上に起き上がる。と同時に、彼が夢だと思っていた記憶が早送りの映像のように頭の中に溢れ出した。

 そう。確か昨夜はフローリングの床の上で時間帯こそ忘れたものの力尽きていた彼は、随分と痛い訪問者に額を殴られたのだった。それは他でもない、マナーモードのままだった携帯電話。ローテーブルからダイビングし、図ったように彼の額に着地したのだった。
 額の痛みを堪えつつ、彼は溜め息と共にその場に起き上がる。彼が通話ボタンを押すのを待っているかのような携帯電話の画面を力なく開けば、彼の目に思いがけない名前が飛び込んだ。
 そう、それは他でもない二年前につまらないことが原因で喧嘩になり、彼の元を去った元恋人の名前だったのだ。
(ちょっ………! 待て待て待て待てぇ? なんであいつが?)
 夢………ではない。確かにこれが現実だと教えてくれる額の痛みが自己主張していた。しかし、これが夢でなければなんであるというのか? 二年も経った今になって、彼女が連絡をしてくることがあるなど、それこそ夢でもなければ考えられないではないか。
 夢なのか現実なのか、区別のつかない顔のまま通話ボタンを押した彼は恐る恐る耳に携帯電話を押し当てた。
「………もしもし?」
 妙に硬く聞こえる自身の声を遠くに聞きながら、彼はむやみに上がってくれる心拍数を抑えられずにいる。そんな彼の鼓膜に、懐かしい声が安堵と共に触れた。
『良かった。番号変えてなかったんだね? ……久し振り』
 その声は紛れもなく、二年前に出て行った元恋人の声。はにかんだような響きがくすぐったく感じられて、彼は僅かに首を竦めた。
「久し振り………。ってどうしたんだ? 急に?」
 懐かしさに誘われるように彼の口調からも硬さが溶ける。その気配が携帯電話の向こうにいる彼女にも伝わったのか、くすぐったそうな小さな笑みが聞こえた。
 彼の肌の上で、急速に時間が巻き戻されていく。携帯電話を通して彼の鼓膜に届く彼女の言葉の調子が、息遣いが。彼が無意識のうちに仕舞い込んでいた熱を刺激した。
『うん………。急に会いたくなっちゃって。明日からの三連休、どこかで会えないかな、とおもってさ』
 どこか照れたような、申し訳なさもごく僅か含んだ声で彼女が告げる。すぐにはその言葉の意味がつかめなかった彼だが、その意味を理解するなり力いっぱい頷き返した。
「大丈夫! 全ッ然、大丈夫! 俺、相変わらず暇してるからさ!」
 彼の言葉に彼女の笑いが小さく答える。
『変わってないね。………なんか安心しちゃった』
「そう? 俺も」
 照れたような笑みを浮かべ、彼は携帯電話の向こうにいる彼女に触れようとするように手を伸ばした。
「場所、どこが良い?」
『そうだねー………。やっぱり、いつもの場所?』
 待ち合わせ場所を問う彼の声に、彼女は面白がるように悪戯を含んだ声を投げる。そんな小さなことさえ嬉しくて、彼は叫びだしそうになる自分を抑えなんでもない風を装って頷き返した。言葉を唇に乗せながら、彼は床から立ち上がり布団へと向かう。
「だな? あそこなら昼で良いよな?」
『うん。ランチ久し振りに食べたいしね!』

 あっさりと決まった場所と時間を確認し合い、二人はそれから途切れなく他愛ない言葉の投げ合いを幾度も繰り返したのだった。
 それを何故かぼんやりとした夢のように記憶していた彼は、いつの間にか手の中で静かになっていた携帯電話を慌てて開いた。
「………………………嘘じゃなかったんだ………」
 開いたメールの画面には、昨夜の電話に対する礼と今日の待ち合わせの時間、場所の確認が懐かしい文体で書いてある。
「やり直して良いってことだよな? これ」
 視線を落としたままのメールに言葉を投げれば、彼女らしい使い方の絵文字が手招きしていた。
 しばらくの間画面を見詰めていた彼は、壁掛けの時計に視線を投げご機嫌な様子で彼女と会う為の準備をはじめるのだった。

#小説

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