月の蒼
儚くも辛き浮世の光。
導きいざなうモノはヒトかカミか、それともオニか。
遊ぶ時の間に間に、儚く舞う蝶はいずれか。
かくして扉は開かれ、里は橋を通し異界へ通ず。
いずれのモノがいざなうか、かの扉へ。
戯れのように節をつけて言葉を風に流す西人(あきと)に視線を流し、南貴(なつき)は杯を傾けた。つぃと彼女の唇に口付ける酒は白湯のように彼女の喉を潤し、体を温める。卓に乗せられた酒は質素ともいえる肴と共に穏やかな気配を添えた。
「相も変らぬと笑うかい?」
喉の奥に笑みを漏らし、年長である西人が南貴に言葉を向ける。それに静かな微笑を返し、南貴は酒が色を添えた唇を指先で拭った。
「さようなことは申しておりませぬ。ただ……」
浮かべた笑みを柔らかいものに変え、南貴は傍らの東人(はると)に視線を流す。それを受けて東人もまた笑みを浮かべた。
「私達の中で最も風流を愛される西人。余計な肴を並べるより、よほど華を添えてくださいましょう? おかし、と申したまでにございますわ」
「随分と買われているね?」
南貴の言葉に立ち上がり、西人は部屋を横切り隣り合わせた自室へと向かう。その背を見送り、それまで言葉を挟まず杯を傾けていた北貴(ふゆき)が着物の袷から横笛を取り出した。懐紙をついでのように取り出し、酒に濡れた唇を拭う。
そこに戻ってきた西人の手には、篳篥と琵琶があった。興の乗ったらしい顔で東人と南貴に視線を送り、華やいだ笑みを見せる。ついでのように東人へ琵琶を渡し、笑みを深めた。
「冬の冴えた蒼い月には和楽器が似合いだろうと思ってね。南貴、大輪の華を添えてくれないかい? 気分で合わせるのも一興だろう?」
喉の奥に笑い、西人はすぃと南貴に手を差し伸べる。その手を取り、危なげな様子を微塵も感じさせない仕草で彼女は立ち上がった。帯に挿した扇を取り、しゃらりと衣擦れの音を響かせそれを開く。
彼らが互いに視線を交わしたのはほんの一瞬のこと。流麗な音を西人の篳篥が紡ぐ。それに北貴の横笛が寄り添い、東人の琵琶が鳴った。古くから伝わる謡曲ではない、興のまま自在に姿を揺らめかせる、まさに即興。それに南貴の舞が華を添える。
あまりにも風雅に、あまりにも変幻自在なその遊びに目を愉しませるのは冴えた冬の月のみ。冷えた冬の気配は、時折はぜる火鉢が柔らかく温もりを添えるばかりだ。
時の流れさえ緩やかにする舞は、音は、伸びやかでありながらどこか愁いを帯びて咲く。薄く漂う酒の香が散華を連想させ、今のこの時さえもが浮き世の儚き一雫であると告げているようだった。
しゃらり……しゃらり
すぃ、…たん
呼吸ひとつ乱すことなく、四半刻も興じた頃だろうか。最後の一音を東人が爪弾き、南貴は蒼く白い月を仰ぐように舞を収めた。
柔らかい沈黙がそっと彼らの傍らに添う。
余韻が宙に溶けた頃、琵琶を置いた東人は南貴に手を差し伸べた。扇を再び帯に挿し、東人の手を取った彼女はつぃと足を進め座した。
「流石、南貴だな。見事な華だった」
感嘆のこもった言葉を投げ、北貴が片笑む。それに緩く頭を振り、南貴は儚くも見える笑みを浮かべた。
「それは引き立てる音があってこそ。舞はそれだけでは成り立ちませぬ故に」
「さればこそ、音もまた然り。華は咲くばかりでは目を愉しませることもなく、散るとて気付かれねば儚さもなし、ということだね」
南貴の言葉に喉の奥で笑い、西人が戯れの言葉を落とす。それに微かな笑みを零したのは誰か。しらしらと降る月灯りに照らされるそこには、密やかな静寂が良く似合う。
「………明日は白い華が咲きそうですね」
不意に零れた東人の言葉に、彼らは視線を外へと投げた。あたかもそこに冬特有の冴えた宙に舞う白い華があるかのように目を細める東人の仕草は、硝子に触れる華の気配を連想させる。吐息混じりに南貴が笑む。
「ほんに。明日は華も咲きましょう」
蒼白く照らされる西人の庭は、明日には白く薄化粧を施され音のない白さに包まれているだろう。
心地良い静寂に想いを遊ばせ、彼らはもうしばしの間、この穏やかな時に身を任せるのだ。