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渋谷ハロウィンにおける渋谷文化論

                     ※写真の他媒体への転載厳禁

【少年ジャンプ】

「お前たちはもう四年生になって、大人になったんだから、漫画のような下らないものを読むのはもう卒業しなさい」

筆者が小学校四年生のときに担任の教員が我々幼き生徒たちに向かって放った暴言である。
年齢が割れるのであまり言いたくはないが、少年ジャンプで『はだしのゲン』の連載が始まった頃の話だ。
良い漫画もあれば悪い漫画もある、ではなく、漫画そのものを悪とみなす風潮がこの頃はまだ根強く残っていた。

漫画を日本の独自文化と捉える人は当時はまだ少数派だったのだ。


【常軌を逸した若者たちの狂乱の宴】

渋谷ハロウィン(以下一部、渋ハロ)に対する世間一般のイメージといえば

リア充、パリピの巣窟
無法地帯、暴徒、暴動
乱痴気騒ぎ、犯罪の温床、リアル北斗の拳

 とまあ、こんな感じでしょうか。

渋谷に対するイメージの悪化だけでなく、実際に大量のゴミ問題や警備にかかる費用問題など、地元渋谷区に対する経済的負担は大きく、
その上、渋ハロ自体は経済効果が低く地元に金が落ちないときている。

 悪いことだらけじゃん。

故にか、渋ハロがメディアで取りあげられる場合、殆どがネガティブな論調ばかり。

ネット上で散見される渋ハロについての言説をいくつか拾ってみたのだが

『仮装した若者たちが常軌を逸した宴を繰り広げるハロウィン。今年はコンビニチェーンが酒類販売を自粛するなど自衛策をとっているものの、若者たちの行動を抑えられる見込みはない』(2019年10月30日 / 日刊SPA!)

『渋谷でハロウィンをやる事は、マイナスのことだらけではないか。キツイ言い方をすれば「公害」になっているとさえ言える。』(2022年10月31日 / アゴラ)

『渋谷ハロウィーンを今の形で継続させることはかなり危険だ。「観光公害」をえげつないことにして渋谷を阿鼻叫喚の地獄絵図にしてしまうので、絶対にやめたほうがいい。』(2022年11月01日 / ITmediaビジネス)

と、まあこんな感じ。

別々の識者が共通して「公害」という言葉を使用しているところからも、世間が内包している渋ハロに対する負悪のイメージ像がうかがえる。

まあ、そうだよな。
実際に軽トラ横転事件なんかも起こっているわけだし。
今後さらなる大惨事が起こる可能性だってないとは言い切れないし。
実際、韓国では起きたわけだし。

だからまあ、世の中の多勢の人達がこれらの報道、論説に接することで渋ハロは危険な公害であり
「無くすべきもの、消え去るべきもの」
と捉えてしまうのも仕方のないことなのか、とも思う。

思うのですが
いやしかし

これら報道、論説はあくまでも渋谷ハロウィンの一側面であり、他の角度から見た別の側面もあるのですよ、ということを微力ながらお伝えしていきたいというのが本稿の主旨なのです。


【ラブホテルと女子高生】

そもそも、世の若者たちは何故に渋谷という街に惹きつけられるのであろうか。
渋谷の街の魅力とはなんなのか。

東急グループの街づくり戦略がうまくいったとか、西武グループとの競争が相乗効果を生んだとか。
まあ、そのへんの経済的側面に関することはその筋の専門家に譲るとして、

では、筆者が考える「渋谷の街としての最大の魅力」はなにかと言えば、
それは

ラブホテル街が併設されている

ということだと思うのですよ。

ラブホテル。
性行為専用の貸部屋である。

しかもですよ、その性行為専用貸部屋街が女子高生の聖地と呼ばれるSHIBUYA 109のすぐそばを占有しているわけですよ。

両者同じ区画内で200メートルくらいしか離れていない。

こんなイカれた街、他にねえだろ。(褒めてるんですよ)

(因みに渋谷に於いてはSHIBUYA109よりラブホテル街のほうが歴史は古い)

この「ラブホテル街が併設されている」ことによる街全体に漂うエロチシズム。
渋谷に行ったらもしかしてワンチャンあるんじゃね? 感。
これこそが渋谷の最大の魅力であり、若者たちが惹きつけられる磁力の正体なのではないかと筆者は考えている。

そんなエロい街渋谷で毎年秋に「発生」する(開催される、ではない)渋谷ハロウィン。

そもそも渋ハロとはいかなる催しなのか。

よく渋ハロを「お祭り」と捉えて論評する旨を見かけるがそれは認識誤認である。
渋ハロは「お祭り」ではなく「パーティー」なのだ。
渋谷の街を会場とした自由参加型「フリー仮装パーティー」だ。

特徴としては主催者や発起人のような中心となる存在がなく、自然発生的に生まれたムーブメントであるということ。
そして最大の特徴は、路上という公共の場所がパーティー会場と化してしまっている、ということだ。
この「街がパーティー会場と化す」というところに渋谷の街としての魅力が端的に表れていると思うのだがどうだろう。
そばにはラブホテルも完備だし。


【俺は若い奴が嫌いだby吉岡司令補】

渋ハロをある種の社会現象と捉え、「日本の若者論、世代格差論」を唱える旨もたまに耳にする。
いわゆる「今時の日本の若い奴らときたら〜」という類のあれだ。

たいがいは、ハロウィンの起源であるとか、本場のハロウィンのありようであるとか、「本物」との比較を拠に批判的な言説が放たれるのであるが、
しかし渋ハロに関して、それら論者らが見落としている実情がある。

実際に渋ハロに行ってみれば分かることなのだが、その場に集っている人々(パーティー参加者)のかなりの多くは外国人なのだ。

外見で外国人であると明確にわかる人も多数いるのだが、それだけではなく、周囲から聞こえてくる言語では韓国語とか中国語とかのアジア圏の言葉が圧倒的に多いと感じる。
これらの東アジア系参加者も含めると、あくまでも筆者個人の主観的体感的数値ではあるが、半数以上、6割強外国人な感じである。


【ユートピア(楽園、理想郷)】

しかしながら治安はすこぶる良い。
暴力的な空気は全く感じられず、少なくとも筆者は身の危険を感じたことは一度もない。

軽トラ横転事件が起きた2018年にも筆者は渋ハロに参加していたが、現場から少し離れた場所にいたので、まったく気づかなかった。
事件のことは翌日メディアで初めて知ったぐらい。
少なくとも街全体が暴徒に覆われ、てな感じではなかった。

とは言え、たしかにあれは最悪の所業だ。
(因みに逮捕された15人中5人が外国籍)

この軽トラ横転事件以外にも、軽犯罪レベルとはいえ、いくつかの犯罪行為が報告されている。

被害に遭った方々のお怒りはごもっともである。

これらの悪行を理由に渋ハロを無くせという主張に対して反論するのは正直難しい。

難しい、んだけど、でも、なんか、やっぱ、無くすというのはあまりにももったいないよな、とも思うのですよ。

あの事件を機に路上飲酒が禁止されて、さらには現場の警備が一部民間に委託され警備体制も強化され、以降、治安は大幅に改善していることですし。

実際のところ、近年の渋ハロ、そこいらじゅう警察官や警備員だらけ。

しかもあの人たち、拡声器を使って「立ち止まらないでくださあい、立ち止まらないでくださあい」と始終がなり立ててくる。

正直これ、かなりうるさいんだよね。
大音量で常に歩き続けろと強要される感じ。
立ち止まるだけで犯罪者扱い。
なんなら警察官が一番怖い。
常軌を逸した若者たちより怖い。

では、じゃあ、逆に、なんで、そんな官圧を受けながらも、わざわざ渋ハロなんかに出向くのか?

その理由は以下の写真から感じ取っていただければ幸いです。

まあとにかく皆んな笑顔。

そこいらじゅう笑顔笑顔笑顔。

皆んなハッピー。

こんな感じ。

そして街全体のテンションが異様に高い。
街全体が躁状態。

そこで皆んなで記念撮影だ。

どうだろう、この、あらゆる人種が集い、皆んな笑顔で肩を寄せ合って記念撮影をしているという光景。

まさにユートピアではないか。

このユートピア感を味わえるということこそが渋谷ハロウィンの醍醐味であると私は強く主張したいのですよ。

 

【コギャル・汚ギャル・黒ギャル・ヤマンバ】

以前、とあるラジオ番組でアメリカ在住の映画評論家の方が
「アメリカの10代白人女性コミュニティの中からは独自の文化が生まれてこない。だから、彼女たちは大人の創った流行に追従するしかない」ということを話されていた。(黒人10代女性圏からは独自スタイルが発生することはたまにあるらしい)

たしかに欧米白人ティーンエイジャーから独自発生した文化やスタイルというものは聞いたことがない。

一方、日本には「ギャル文化」という堂々たる独自の少女文化がある。

ある、とは言ってみたものの、筆者はあんま詳しくない。
ウィキ知識レベル。
て言うか、実は私、ギャルとか若い女の子、あまり好きではないんですよ。熟女が好きなんです私。

しかし筆者の女の好みなんかはこの際どうでもいいわけで

コミュニティの中から独自文化が生まれてくる

ということ自体が素晴らしいことであり賞賛されるべきことだと思うのですよ。


 【カルチャー発生国としての日本】

日本という国が政治、社会、経済において様々な問題を抱えているということを実感せざるをえない昨今の日々。

不正行為の横行
巨悪に対する無力感
負の悪循環
将来に対する不安

近年、日本に関する論説において「衰退国家」という言葉を頻繁に目にするようにもなってきた。
そして、実際、本当に、衰退しているようにも感じる。

一方で、日本は「POPカルチャー大国」であると呼ぶむきもある。

漫画、アニメ、ゲームは言うに及ばず、アイドル、ファッション、ボーカロイド、ラーメン、カレー、AV、お笑い、他多数。

これらに関しては寧ろ発展しているように感じる。(ここでいう発展とは作品の質や独創性とかの部分の話であり、予算、製作費、売上、利益率、報酬、ギャラ、労働環境等々の経済面では依然として問題が山積していることは承知している)

で、筆者としましては、これら自国で発生した様々な独自文化を楽しむことができる、ということが、この生きづらい日本社会において、少なくとも日本に生まれてよかったと思える、ささやかなる「よすが」になり得るのではないかと思うわけですよ。

文化というものは「楽しんだもん勝ち」ってことだけは確かなわけで、だったら、楽しめる文化の種類はたくさんあったほうがいいじゃないですか。

で、あらためて言いたい 

渋谷ハロウィンは渋谷発祥の独自文化である

と。

まあ私個人がそう捉えている、ということだけなんですけどね。

何が言いたいかというと、自然発生的にこのような状況が生まれ出るということの価値を、好き嫌いは別にして、あらためて見直して頂きたいということなんですよね。

そもそも、それが文化であるのか否か
そこに客観的な線引きなんかはなくて
文化として捉えるか否か、だと思うんですよ。

そして、文化であると捉える人が多数派になった時に、そのムーブメントは世間的に本当の意味での文化として認められる、ということなのかなと。

まあ筆者としましては、渋谷の街という「場」から発生したムーブメントを渋谷文化と捉える人の数が多数派になることを切に願う次第なわけです。

ラブホテルも完備だし。     〈了〉

 

 

 



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