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逃と挑

こんにちは。

今日は"逃"と"挑"について自分の考えを述べたいと思います。

前の記事にも書いた通り私は高校時代専門の800mで県大会にも行けず、ましてや地区の予選で敗退するような選手でした。その頃は、練習はちゃんとやった、与えられた指示は守った、と自分を過信し過大評価をしてしまってしました。監督から与えられた練習メニューを考えることなく、ただただ単純作業のように行っていました。しかし最後の大会でようやくPBを更新できたときは、試験前ということもあり、自分で練習を組み立て、監督の言葉を思い出し、自主的に練習を行なっていました。 結果が出た時と出なかった時の差は数字で表すと大したことはないが、過程で表すと天と地ほどの差があり、そこには"受動性"と"能動性"この2つの差がありました。

大学に入ると、何事も自分で行い、逆算して行動しなければ結果はついてきません。1年目はガラッと変わった環境に対応することができず、PBを更新するどころか自身ワーストの記録も出してしまった苦悩の1年目でした。しかしシーズンイン直前のある時を境に、練習が楽しくなりました。それは自分が考えたことがその練習でハマった瞬間でした。初戦では結果は出なかったものの何かを掴めことができ、その2ヶ月後3年ぶりにPBを更新することができました。この時も先に挙げた高校時代の時と同様に、"自分で考える"ということがちゃんと行えていました。

私はタイトルに"逃"と"挑"と綴りましたが、この似てるようで、意味は全く似ていない漢字の中には以下にあげるような内容があるのではないかと思います。※あくまでも私自身の考えです、一般的な解釈とは異なります。

"逃"考えることをやめた時、受動性

"挑"自分で考え、試行錯誤すること、能動性

だと考えます。

少し違うだけでもその内容は大いに違います。

例えば、今日のメニューは400×10と指導者から告げられた時、ただ単に走るのと、目的や考えを持って走るのとでは同じ内容であっても質は異なると思います。

よく指導者に『この練習はどういう意味があるのですか?』と尋ねる人がいるが、そうではなくて、『私はこの練習にはこういう意味があり、意図を感じるのですが、どのような意図で練習を提示していますか?』と考えてから、他人の意見を聞き、そこでまた内容の意味、意図を再考する。他にも、客観的に見てももらい指摘を受け、その指摘をまた自分で考える。自分の弱さを受け入れられる人間は強い。そしてそれを改善し、強みにできる人間はさらに強い。

こういった細かい部分でも大いに意識変わってくると私は思います。

物事から逃げた時、それはアスリートして終わる。

今、この状況だからこそ、

何ができない、ではなく、どうしたら出来るか。

あの環境じゃなきゃできない、ではなく、今置かれた環境でなにができるか。

今は昨日までの積み重ねという階段で成り立ってる。昨日昇った階段を振り返って、『あぁ昨日の階段はよかったな』なんて振り返ってもなんも意味がない。昇るかしない、降ったら逃げだから。

過去に逃げず、今に挑もう。

頑張ろう、アスリート。

次回は800m、中距離という種目について思いを綴りたいと思います。

ではまた次回👋

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