金木犀の香りとともに
徒然なるままに絵にまつわるあれこれを。
今年。
クライアントさまの絵を描くばかりで、自分のアート制作は、随分と絵が見えてこなかった。白いキャンバスに浮かぶ絵が、出てこない。
10月に入り、金木犀の香りが窓から入ってくるのと同時に、久しぶりに絵の気配がやってきた。でも
それらは完全に自分の中のものかというと、どうもそうでもないように感じられる。
ああ、そうか
わたしは世界中のどこかにある、地の光、誰かの光を
汲んでいたのかもしれないと、
ふと。
自分の制作でありながら、自分はいないような
どこからか映像を持ってきて降ろすような、そんな作業を
考えてみたら絵のお仕事をし始めてから20年ずっとしている。
物語を読んだら物語の中から持ってくる、
相手がいるなら相手の中から持ってくる、そんな作業。
そして見える絵は、完全に、どこもかしこも美しい。
もちろんその世界が夜であったり、崖であったり、
さみしい場所であったり、海中であったりもある。
だけどモチーフは関係なく、
何もかもが「有り」で、何もかもの色は綺麗だ。
匂いも、土ほこりも、空中に広がる雨雲さえ。
クライアントさまを前にしたときに、その場所が崖の途中だったら登り切ったり、鬱蒼とした森なら太陽を探したりもするけれど
今ただ絵を運ぼうとすると、雨雲の日だって湿地だってなんだって、清々しい爽やかな風が吹き、いずれ光を受け、キラキラ輝き出す。
この気配は、彩りは、陽の光は風は
誰もの背景にある基本の景色なのであろうと。
そんなイメージがふと心に湧いた時に
描きたいな、とやっと感じられ
それはまた、自分を通過して、
誰かの光となるイメージも一緒に運ばれてきて。
そう、時々人は、刺激のためにロッククライミングをしたり
ダイビングをすることなんかも選んじゃう。
冒険したくて探検したくて、わざわざ困難な道に進んで
混乱して泣いちゃったり。
絵は、その辿り着く先をちゃんと見せてくれている。
本来の、基本の景色を、
水があって光があって土があって木がある、
虹だって出る、当たり前の景色を。
だから安心しているのかもしれない。
全ての人の持つ豊かな景色ったらない。
豊かな中で、たまたま居る場所が崖の途中だったり
海の中だったりするだけだ。
そこが怖いなら、すぐに移動させてやる。
だから安心していて、と。
絵を媒介にして、みんなが本当に辿り着きたい場所に一緒に行って
そこを見つけたら根を降ろせばいいよ、って。
今目にしている世界の闇は、雨は漆黒は夜は
いっとき自分が滞在しているだけの世界観であるだけだと、
そのベースには、元々の明るい土地があるのだと、
そんな想像は忘れないでいてほしいと願う。
もちろん闇だって美しいけれど。
心の困窮は、イメージの弱さも要因ね。。
イメージを広げましょう。
豊かさとは…
心の豊かさ。
でしかないのかもしれない。
そしてこれまでの誰かが決めた一般的な社会生活のイメージは
プロパガンダ?
心の豊かさにはちゃんとお金のサポートも付いてくるのは
また別の話だけど、
不思議な真実ではあるかもしれない。
まあ、ゆるくそれを信じてゆこう。