「依存してもいい」とつぶやいてみる
「依存してはいけない」と、無意識に思う人がいます。
たとえば、SNSに。
たとえば、甘いチョコレートに。
たとえば、恋人に。あるいは、子供に。
いつからでしょうね、依存すること自体が悪しきことだという認識に直結するようになったのは。
そもそも、私たちは依存しないと生きていけません。私たちの生命は、水や空気に依存しています。明らかに他のものによって存在が成立しているのです。
自立した個性があること、誰にも流されない自分の意見を有していること。あらゆる類のコピペが可能となった昨今の社会においては、反動的にますます強く「個」のアイデンティティが求められるようになっています。
しかし、もともと「自己」の輪郭というものは曖昧であり、それほど強固なものではありません。私たちは他者とのかかわりによって初めて自己を認識できるものです。その風通しの良さがあってこそ、より良い人生を求め吸収し、変化していくことができるのだと思うのです。
「依存してはいけない」。そう思うことで、苦しくなっていませんか。自分の行動1つ1つに自ら制限をかける状況を作り出すことで、「依存してしまう自分はだめなやつだ」と巧妙に自分を責める材料にしてはいませんか。
依存「症」となれば話は少し変わりますが、「依存」そのものはそれほど怖がることではありません。何にも依存せずに生命を維持している人間はいないからです。私たちは、この地球に在るほぼすべての事象と直接的かつ間接的に少しずつ関わり合いながら存在しています。そう考えると、自分の存在に対して「自己」が責任を負える部分なんてほんの一握りです。
それでも実際問題、依存することが怖いときにはどうしたらいいか。依存している自分を責めてしまうときはどうしたらいいか。1つ、ヒントになりそうな考え方があります。「その依存の先にある未来が悲劇かどうか」という冷静な視点を持つことです。
たとえばあなたが、SNSに依存している自分を責めているとして。あなたが仮に1分おきにスマホを見ることで、誰かが悲しむのでしょうか。大切な誰かが苦しんだり、経済的、身体的、あるいは心理的に大きな損失を引き起こすのでしょうか。仮に悲劇が起こりそうだと予測したとして、それを加味してもあなたはそれに依存するのか。その悲劇を引き受ける覚悟はあるのかどうか。
依存したその先の未来をどう創るかは、何をどうしたってあなた次第なんです。ちゃんと選べるんです。その依存を意義あるものにするのか、自分を責める材料に使うのか。
依存そのものは単なる現象です。依存したその先の未来なんて、人間であればある意味たかが知れている。だから今あなたが本当にそうしたいなら、安心して依存すればいいと思うのです。そうしたいと思うなら、心ゆくまでやってみる。見たいなら、そう思ったタイミングで逐一見ればいいのです。「いいね」が何個ついているかを。
どうせ永遠じゃないんです。どんなことでも必ずいつか終わるし、変わっていくものです。人の心も、時代も、常識も。それが自然の摂理です。
「依存」そのものを良い悪いで短絡的にジャッジせず、「今はこういうとき」とある程度割り切り、そんな自分と手を繋いでぼちぼち歩いていきますかー、という一種の諦めにも似た空気感を自分に纏わせることも、これから先不安を感じる機会が多くなるであろう世の中を生きていくためのスキルとしてある意味必要なんじゃないかと思うのです。
依存したって、流されたって、いいじゃないですか。その先の未来はたぶんあなたが思うほど悲劇にはならないし、仮に悲劇になったところでそこからまた自分好みの未来を創ることを選べるのだし、尚それによってさえあなたの価値は減らないのだから。