パルファム・メラルーカ

 ルカは靴下を履いた猫だ。もちろん本当に靴下を履いているわけではない。毛の模様がそういう風に見えるというだけだ。

 ついでに言ってしまうと、本物の猫でもない。

 ルカ、メラルーカの正体は、パルファムと呼ばれる精油から生まれた使い魔だ。仲間たちの多くは人間と同じ姿を好んで取っているが、ルカはあえて猫の姿をしている。

 使い魔である以上主人はいるが、ここ数年その姿を見ていない。地球上のどこかにいることはわかっているが、少なくともルカは主人がどこにいるかに興味はなかった。

 繋がっていればいいのだ。必要とされれば、主人がどこにいても駆けつけられるという自信がある。

 では、なぜ猫の姿をしているかというと。猫が好きだから、という理由に他ならない。

 だが、精油としてのメラルーカは猫には猛毒だ。だから、自分が猫を愛でることは出来ない。苦肉の策として選んだのが、自分が猫になるという選択だったわけだ。

 自分が猫になってみて、ルカはますます猫のとりこになった。

 猫はいい。自由だし、気ままだし、人の姿では到底通れないところも通れる。涼しい木陰で丸くなって寝ていても咎められることもない。猫嫌いの人間に見つかったら少々厄介なのですぐ逃げる。猫好きの人間に対しても同じだ。もっとも、後者の方は気が向けば遊んでやらないこともない。

 今日も今日とて店を抜け出し、住宅街を闊歩する。尻尾をゆらり揺らして塀の上を進んでいくと、その家の番犬が威嚇のポーズで吠えてくるのが楽しかった。

 自由気ままに街を往く。どこか行くあてがあるわけではない。同時に全てが行くあてだとも言える。ルカは自由だ。どこまでも自由だ。

 古びた一軒家の縁側で、老婆が一人船を漕いでいた。

 新しい家ばかりが立ち並ぶこの区画で、老朽化も激しいその家は嫌でも悪目立ちする。

 いつもは通り過ぎるその家の前でルカが足を止めたのは、いつもは家の中に閉じこもっている老婆が、縁側という外に繋がる場所に出ていたのが珍しかったからだ。

 季節が良く、天気が良いからかもしれない。

 隣の家の塀の上で、ルカは尻尾をくゆらせた。猫の目が細められ、耳がピクリピクリと音を追う。

 ほんのかすかだ。ほんのかすかだが、ルカは誰かの心が軋む音を聞いた。

 人の心は難解だ。表と裏で思っていることが180度違う。本音に素直になれば楽なのに、建前ばかりを大事にして、そうして勝手に苦しんでいる。しかも自覚がないからタチが悪い。

 パルファムの役目は、そういう縺れた心をほぐすことだ。そしてそれは、最初にその軋みを聞きつけたパルファムが行うことだった。

 ルカは身軽に塀の上から飛び降りる。初夏の日差しは暖かい。眠る老婆のそばまで近づくと、……老婆が目を覚ました。

「……おや」

 シワに埋もれた視線がルカに注がれる。ルカは少し考え、にゃ、と猫らしく一声鳴くと、縁側の上に飛び乗った。

「これ、降りなさいよ」

 しっしと追い払う仕草をした老婆の手に、ルカは器用にすり寄った。ぐるぐると喉を鳴らしてやれば、予期せぬ闖入者に対する老婆の警戒が、ほろりと崩れて行くのがわかる。

 ルカはさも当然の顔をして老婆の正座された膝の上に乗った。さすがに老婆は咎めるがルカの知ったことではない。というか、老婆が望んでいることだ。

「……甘えただねえ」

 ルカが老婆の膝の上で丸くなると、老婆はやれやれといった風に破顔する。

「あんた、なんか良い匂いがするねえ」

 老婆の皺だらけの手が、ルカの背中を丁寧に撫で摩る。パルファムであるルカから猫の匂いはしない。漂うのは真名であるメラルーカの香りだ。己の香りが老婆を包んでいるのなら、やはり今回は「自分の番」なのだ。

 ルカははっきりと確信しながら、今日の午睡はこの場所ですることに決めた。


 それから、ルカの老婆通いが始まった。

 毎日の訪問に最初はルカを邪険にしていた老婆も、家に上がるか上げないかの攻防を繰り返すうちに、ルカの来訪を心待ちにするようになったようだ。

 ルカは猫ではないのだけれど、老婆の前では普通の猫のフリをした。そのおかげだろうか、老婆はルカを毎日の話し相手にした。だから、ルカは老婆のことに詳しくなった。

 老婆は人間嫌いだ。口ではそう言う。若い頃に夫を亡くし、それから二人の子供を女手一つで育ててきた。

 二人の子供は母である老婆を嫌っており、成人してから家を出て、それからほとんど交流がないのだという。

 老婆はそのことを親不孝だと不平を漏らしたが、本心ではそう思っていないようだ。ただ、悲しんでいる。そういう感情が、ちらりちらりと見え隠れする。

 人間嫌いだから、友人と呼べる存在もない。あるとすれば、老婆の家に通い始めたルカくらいのものだろう。

「あんたは本当に良い匂いがするねえ」

 今日もルカを膝に乗せて、その背中を撫でながら老婆が言う。

「なんでだろうね、若い頃を思い出すよ」

 メラルーカは木から取れる精油だが、草っぽい匂いがする。それに郷愁を感じるのは、生物としての本能か。今は老婆の周囲に緑はほとんどないが、若い頃は自然が豊かなところにいたのだろう。あるいは、死に別れた夫との思い出なのかもしれない。ルカは、ニャア、と鳴いてやる。

「昔は良かったなんて聞くけどさ、昔もよくなんてないよ。そんなの、あの人が生きてた時くらいだ」

 あの人。先立った夫。老婆に残る深い深い傷跡が、こういう瞬間に見え隠れする。

「……なんで、こうなっちゃったかねえ」

 老婆ががポツリと呟いた。

 今まで季節を疑うほど暑かったのに、いきなり気温がぐっと冷え込んだ。老婆の体調を案じていたが、案の定、風邪をひいたようだった。

 病院に行くつもりはないようだ。老婆が病院嫌いなのは知っていたが、こういう時にも適応されるらしい。


「……と、いうわけだ。頼むわ」

 喫茶店という名目で存在する店の、円を描くように六つ並べられたテーブル、その一つの上に飛び乗って、ルカは仲間たちの顔を見渡した。

 オレンジ、レモン、オレガノ、ラベンダー、そしてフランキンセンス。ペパーミントもいてほしいところだが、あいにく外に出ているらしい。呼び戻そうと思えばいつでも呼び戻せるので、今は放っておくことにする。

 精油とは、いわば人類が最初に見出した薬である。科学と技術の発展とともにその影響力は薄まったが、だからといって効能まで失われたわけではない。

 ルカの目の前に置かれた小瓶に、内側からオイルがたまっていく。鎮痛、解熱、鎮咳、去痰、およそ風邪の諸症状に対応するものだ。

「その方は、一体何に心を囚われているのです?」

 フランキンセンスが問いかける。フランキンセンスは、この国では特に目立つ容姿をしている。常に穏やかな表情を浮かべた、ほっそりとした印象の背の高い男性で、肌は淡い褐色。髪も黒く、目だけは金に近い茶色だ。

 少し前からこの店に通うようになった、ジョシコーセーとかいう生き物が、初めてフランキンセンスを見た時、目を丸くしそれから真っ赤になっていたのを覚えている。この国の美意識に当てはめると、オレガノは目立たないがイケメン、フランキンセンスは派手なイケメン、になるらしい。

「ん、罪悪感、かな」

 ルカは、脳裏に老婆の姿を描きながら、答えた。

「子供を育てるために、子供に寂しい思いをさせた。だから、今自分が寂しいのは仕方のないことだ、そう思ってる節がある」
「愛するがゆえでしょう」
「そりゃな」

 フランキンセンスの言葉は真理をついている。ルカは深く頷く。

「それを免罪符にしてはいけない、そう思っているのでしょうね。それ以外に理由などないというのに」

 穏やかな言葉でルカの言葉を継いだのは、ラベンダーだ。

「何度か、シヤクショ? のショクインってのが来て、ばあちゃんといろんな話をしようとしたんだが、まあ、ばあちゃん頑固でな。話を聞かない聞かない」

 叩き出すように訪問者を追い出す姿を何度も見た。怖がっているのだと思う。人の善意を受け入れることが出来ないのだ。

「あはは、じゃあ、さいしょに出逢ったのルカでよかったね。アタシたちのうちのだれかじゃ、きっともんぜんばらいだった」

 レンが笑った。その通りだと、ルカも思う。

 仲間たちから託された精油を持って、ルカは老婆の家を訪れた。

 時刻は深夜だ。住宅街は静寂に包まれている。

 寝室に敷いた布団の上で、老婆は苦しそうに眠っていた。

 病に侵されているせいもあるだろうが、苦しみの大部分は、その心にある虚空が原因だとルカは知っている。

 周囲に香りを広げる。いくつかの香りが混ざり合い、響き合って、老婆の身体を包み込む。

 ルカは老婆の枕元に行儀よく座って、目を閉じた。意識を共鳴させる。ゆっくりと、ルカは老婆に溶けていく。


 下の息子が生まれてすぐのことだった。優しかった夫が、事故に巻き込まれて死んだのは。

 加害者である側は逃げ、ろくな保証もされず、後には乳飲み子と分別もつかない年頃の子供が二人残された。

 もともと親や親戚に祝福された結婚ではなかったから、誰に頼ることもできず、たった一人で育てて行くことを決めた。死んだ夫の分まで、この子たちを立派に育て上げてみせると、そう誓った。

 それから。必死で働いた。働いて、働いて、働いて、それでも生活は貧しかった。食べていくのがやっとだった。

 いつの間にか、子供に頼っていた。すべてにおいて、頼り切るようになっていた。上の子には、とくに。たくさん我慢をさせた。勉強の得意な子だったのに、高校にも行かせてやれなかった。

 それほどに理不尽を強いたのだ。

『……俺も出てくよ。母さんには、そのほうが良いから』

 上の子が自立した後も、そばにいてくれた下の子が、ある日そう言って家を出た。

 戻る気はないと言った。裏切られたと思った。仕送りはすると言ったが、断固として断った。それでも、口座には毎月二人から一定額が振り込まれる。

 その数字を見るたび、悲しくなった。生活に困窮することはなかったが、心はいつも冷たかった。それだけが繋がりであることが、ただ悲しくてしょうがなかった。

 でも、仕方がないのだ。子供たちがそう思うのも当然なのだ。

 逃げたくて逃げたくて堪らなかった。子など産むのではなかったと思ったこともある。そう思うたび、自分を恥じた。けれど逃げたいと思う気持ちは誤魔化せなかった。

 だから、あの子たちはいなくなってしまったのだ。

「ばあちゃん、大丈夫か?」

 闇の中から声がした。

 夢を見ていたようだった。母を見捨てた薄情者、……いいや違う。先に見捨てたのは自分だ。母親としての役目を放棄したのだから。

 ひやりと冷たい手が、額にふれる。

 ふわりと、どこか懐かしいようなにおいがする。

 草生した田舎のあぜ道。同級生だった夫との思い出の場所。この人と所帯を持ちたいと思った。その願いは叶い、子宝にも恵まれた。それなのに、幸せな時間は一瞬で幻と消えてしまって。

 それからは、ただ落ちるばかりの人生だ。

 息子の名を呼んだ。ずっと昔、まだ子供が小さかった頃、こんな風に体調を崩した自分の看病を、幼い息子たちが見てくれたことがある。

「……ごめんなあ」

 涙がにじむ。

「だめなお母ちゃんで、ごめんなあ」

 沈んでいく。奈落の底まで。

 子供は答えない。

 やはり、許してはもらえないのだ。

 深い深い絶望が、ひたり、夜に紛れて忍び寄る。

「……なあ、ばあちゃん。それはかなしい言葉だよ」

 闇の中から声がする。闇の向こうで、猫が鳴く。


 赤ん坊が泣いている。

 その泣き声をどこか遠くのもののように聞きながら、茫然と畳の上に座り込んでいた。

 頭の中が混乱している。なんだろう。いったい、なにがどうなってしまったのだろう。

 彷徨う視線が、部屋の隅に置かれた白い箱に吸い寄せられた。

 途端に、全身から力が抜けた。

 骨壺。そうだ、あれは骨壺。終わってしまった人間の最後の形。

 愛する人が、死んだのだ。

 事故の加害者が罪から逃げた。明らかに過失はあちらにあったのに、あれよという間に悪いのはこちらということにされていた。

 世の中を呪った。善良さなど何の足しにもならない。

 夫を失い、幼い子供だけが遺された。

 未来が見えなかった。これからどうしていいかわからなかった。

 夫の後を追おうと思った。

 それが一等良い選択だと思った。

 子供たちと、夫のところに行こう。きっと、喜んで迎えてくれる。

 そう、心に決めたとき、下の子がにわかに泣き声をあげた。

 おわあ、おわあ。

 その声に目を覚ました上の子が、寝ぼけ眼を擦りながら弟のそばに寄る。

 そして、あやしだした。

 その姿を見て、愕然とした。なにを見ているのか、信じることが出来なかった。

 夫が、そこにいた。確かに、夫がそこにいた。

 ああ、そうだ。

 そうだった。思い出した。

 この時、なにをしても生きよう、と誓ったのだ。上の子の中に、確かにあの人の血を感じたときに。

 遺されたものを、ちゃんと次に伝えようと。

 それが――この命を燃やす理由だと知ったのだ。

 眩い光が目をさした。

 気が付くと、また違う場所に立っていた。

 光が溢れている。自然豊かな、里山の原風景だ。

「立派に育ったなあ」

 その光の中で、あの頃のままの夫が、穏やかな表情で言った。

「あいつら、ほんとうに、立派に育ってくれたなあ」

 草生した田舎のあぜ道。噎せ返るような草の匂い。この人と生きたいと願った景色の中で、いなくなってしまった人が、変わらない表情で笑っている。

「あいつらなあ、おまえが、自分らを見るたび申し訳ないって思うのに、悲しんどったよ」
「……そうだなあ」

 ずっと、自分はだめな母親だと思い込んできた。仕事に追われ、寂しい思いをたくさんさせた。諦めさせたこともたくさんある。それを、ずっと申し訳なく思っていた。

 馬鹿な話だ。出来ないことは出来ないのだ。それはそれ以上にはなれないのに。

 それなのに、駄目な母親なんて、そう思ったら。

 ……まるで、子育てに失敗したようではないか。

「失敗したのか?」

 そんなことは欠片も思っていないくせに、夫がこちらに問いかける。

「しとらん! あんたの子だぞ、良い子に育ったにきまっとる!」

 胸をはって、そう言った。

 内側から膨れ上がった感情が、涙になって零れ落ちた。

 光の中で夫が笑う。

 子供たちと向き合うのが怖かった。自分の至らなさをいつ糾弾されるかと。

 ただ、信じていればよかったのだ。

 自分を。

 そして子供たちを。


「ああ、来たのかい、たま」

 老婆は、ルカのことを「たま」と呼ぶ。猫といえば「たま」、だかららしい。

「なあ、たま、あんた、うちの子になるかい? この家じゃないんだけどね」

 ルカはピクリと耳を動かした。

「息子からね、連絡があったんだ。一緒に暮らさないかって。下の子だよ。びっくりしたよ。どういう風の吹き回しだい? って聞いたら、兄貴と話し合った結果だ、だってさ。……馬鹿な子だねえ。こんなお荷物背負い込もうだなんて」

 悪びれながらも、その表情は嬉しそうだ。

「あたしもね、そろそろ素直になろうと思うんだ。やっぱりね、一人は寂しかったよ。自分から一人になってたんだけどね」

 たった一人で子供を二人育て上げた手が、ルカの背中を優しく撫でる。眦に光るものがあるのは気のせいではないだろう。

「孫もいてね、今度、家族でうちに来たいっていうんだ。あんたの話をしたんだよ。うちに通う野良猫がいるって。そしたら、孫娘が猫好きみたいでねえ、ぜひ逢いたいってねえ」

 ルカはむくりと起き上がり、老婆の肩に手をかけてぐいっと伸び上がった。喉を鳴らして老婆の首筋に自分の顔を擦り付ける。くすぐったいよ、と老婆が笑う。

 ここにいるのは猫ではない。猫の姿をしているだけの、パルファムと呼ばれる使い魔だ。

「……ばあちゃん、幸せにな」

 耳元で囁いて、ルカは目を丸くしている老婆のそばから跳び離れた。

 役目は終わった。縁側を飛び降り、風のような速さで狭い庭を走り抜け、生垣を身軽に飛び越える。

 猫の姿をしたルカは、出逢った人間と対話はしない。人の姿になれば声も出すが、それは本当に必要な時にしかしないことだ。ルカがするのは、ただそばに寄りそうこと。そうしてその心を覆う氷を溶かすのだ。それは魂の炎。熱く燃えれば、空さえ飛べる。

 そうやって、外側にあるあたたかさに気づかせ、差し伸べられた手を取れるように手伝うのだ。

 しばらく経って、無人になった老婆の家がなぜか観光スポットになっていた。

 なんでも、「猫の姿をした座敷わらしが現れる家」らしい。縁側に座っていると、靴下を履いた猫が現れて、幸せを運んでくれるのだという。

 その真偽は定かではないが、家主である老婆の元には、ぜひ土地を売って欲しいという要望が、いくつか寄せられているそうだ。

 猫好きの人間が買うのなら、たまに顔出すくらいならしてやってもいい。屋根の上であくびをしながら、ルカはそう考えている。


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注意!

本物の猫にメラルーカ(ティーツリー)は厳禁です!

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