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青木周蔵は本当に西欧風家紋を使ったのか?

青木周蔵
青木が使ったとされる西欧風家紋

①青木周蔵という男

青木周蔵は西欧風家紋を使ったとされている。大正末には沼田頼輔氏の『日本紋章学』の中で、昭和後期にも森護氏の『ヨーロッパの紋章・日本の紋章』の中でもその紋章が紹介されており、日本における紋章研究の両巨頭によってカバーされている。
ところが、意外なことに青木自身がこの紋章を使った明確な資料は残っていないと、青木周蔵研究家の水沢周氏は指摘している。

はたしてどちらが正しいのだろうか。今回はそれを検証したい。

まず青木周蔵の略歴を簡単に見ていきたい。
青木は1844年、現在の山口県の村医、三浦家に生まれた。幼名は団七であった。やがて21歳の時、一人娘テルとの結婚を条件に青木家に婿養子として入り、名を「青木周蔵」と改めた。しかし周蔵とテルの結婚生活は長くは続かなかった。
明治維新が成立した1868年、青木はドイツへと留学してしまう。そしてそのドイツで貴族令嬢のエリザベート・フォン・ラーデと恋に落ち、テルに新しい夫を見つけることを条件に離婚、エリザベートと再婚する。しかし都合のいいことに、外交官となっていた彼は名門の青木家に留まることを選んだ。

帰国後、青木は鹿鳴館外交や不平等条約改正の立役者となり、外務大臣や欧米諸国の日本大使を歴任するなど、大津事件で失脚するまで日本外交で重要な役割を演じた。そして1914年2月16日、この世を去った。第一次世界大戦で日本とドイツが敵国となるのはそれから5ヶ月後のことだった。


②同時代における西欧風家紋

青木の西欧風家紋はいうまでもなくエリザベートとの結婚に伴って登場したものである。少なくとも沼田氏や森氏はそう指摘する。他方、紋章の使用実績を認めていない水沢氏もテルの離婚問題にまつわって興味深い指摘をしている。

周蔵と離婚したテルの再婚生活はうまくいかなかった。そこで再度離婚ということになったのだが、家父長制の明治である。テルは離婚の許可を青木家当主に求めた。誰あろう、周蔵にである。周蔵はそもそもの原因が自分との離婚にあることを棚上げして「次に再婚したらもう離婚してはいけない」と、どの口が言うのかという条件をもって離婚を承認した。
この時に離婚を認める書類に押した印璽が「鹿の角に囲まれた青木家の三つ盛り洲浜紋」だった。お気づきだろうが、これは西欧風家紋のデザインと一致する。

それでは西欧風家紋が明確な姿を伴って登場したのはどこであろうか。それは明治27年に刊行された『明治節用大全』においてのことだった。当時は(まさに青木自身がその推進者であったように)西洋文明が日本に流入しはじめた時代であり、旧来の生活文化が大きく様変わりした時代でもあった。そうした時代の変化を受け、世の中では新しい知識をまとめた百科事典の必要性が高まっていた。『明治節用大全』はその代表格だった。

この『明治節用大全』の中には華族の一覧が家紋とともに掲載されていた。その中にはもちろん、子爵に叙せられていた青木の名もあるのだが、そこに件の西欧風家紋が登場する。他の華族がすべて日本の家紋である中、青木の西欧風家紋は一際異質な存在感を放っている。

当時の「お家」に対する価値観の強さや『明治節用大全』が昭和期に再販された時もこの西欧風家紋が修正されていないことは特筆しておくべきだろう。言い換えれば、『明治節用大全』に掲載されていた青木家の西欧風家紋に対して、当の青木側からはクレームのようなものが入っていないことが窺える。

③明治、大正、昭和の学者たち

もうひとつ忘れてはならないのは、青木周蔵が駐ドイツ公使時代に森鴎外と出会っていたことであろう。そしてこの森鴎外は沼田頼輔氏と交流を持ち、沼田博士はエラルヂック(フランス語で「紋章学」を意味する)を研究していると記録している。さらにその沼田氏は著書の中に青木の西欧風家紋を掲載しているが、これが『明治節用大全』から引用しただけのものなのか、あるいは森鴎外を通じて青木の話を聞いていたのか。それはさだかではない。

しかし森護氏については、青木の妻エリザベートを明治時代の読み方である「イリシャーベット」と表記しており、その引用元が沼田氏であることは明らかである。そしてもし、その沼田氏が森鴎外から青木の西欧風家紋を聞いていたならば、青木→森鴎外→沼田→森護という一つのラインが浮かび上がってくる。
明治、大正、そして昭和の学者たちによって青木の西欧風家紋が伝聞されたとすれば、それはなんとも面白い話である。

もちろん青木自身が西欧風家紋を使っていたかどうかは、ここまで見てきたとおり、また水沢氏が指摘しているとおり、明確な証拠があるわけではなく、さだかではない。しかし青木側が「黙認」のような形で西欧風家紋の存在を許していた可能性は否定できない。

まして筆者の日頃のツイートを読んでくださっている読者は、紋章という存在が西洋文明でいかに幅を利かせてきたかをよく知っていることだろう。熱烈な欧化主義者だった青木周蔵がそれを見逃すはずもない。そう思うのが必然である。そうした心理が、歴史家である水沢周氏が疑問視しているのに対して、紋章の専門家である沼田頼輔氏や森護氏はほとんど確信に近いものを持って著書に掲載していることに表れているのだろう。

あるいは「逸話というものはこうして作られていくもの」というだけの話なのかもしれないが、青木周蔵の西欧風家紋、なんともロマンのある話ではなかろうか。

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