ほしいものについて
なにかほしいものない?
っていう質問がいつも苦手だった。
だって物欲がないんだもの。
お昼ご飯を買ってきてくれるとかではない場合、大体はチョコかコーヒーか花あたりをお願いすると決めてからは楽になったけど、やっぱり物欲がないのでギフトの参考になるような答えはできない。そんな質問も最近はされなくなったが。。(かなしい)
しかし何かを探すことがないわけではない。
ひらめいた瞬間は気持ちがまだ熱いから選択肢を狭めるプロセスもさほど大変ではないけど、それ以外の、なんとなく、あるいは生き方に大きく関わるもの、がいつもたいへん。
台湾にいたとき、そこらじゅうにあったお寺を見学しに行った。
大体のところに三日月型のおみくじサイコロがあって、木の端片が石の床に散らばる音がよくしていた。
時間があったからそのとき初めてやってみたけど、おそろしく時間がかかった。まずお願い事をする前に自分のプロフィール紹介をしなければならない。中国語じゃないと先方もわかんないから頑張ってね、と一緒に行った友人に冗談混じりに言われたけど、せっかくなのでスマホで住所を確認しながら逐次通訳しつつ述べ上げ、表と裏が同時に出るまで投げる。願い事の仕方(聞き方?)がイマイチな場合は何度投げてもだめらしく、色々考える。友人合い曰く、日本で手を合わせる時とは違い、より具体的に、いつ、どこで、誰に関して、どのような条件がいいのか、まるでエッセイでも書かされるが如く極めたお願い、というかお伺い、を述べる方がいいらしい。例えばパートナーがほしい場合はどんな見た目で、身長で、どこに住んでて、性格はこうで、、と具体的であればあるほど良いと。
なるほど、向こうもその方が仕事がしやすいよね。住所まで教えるんだからこちらとしてもしっかり答えがほしいしね。でも私の中国語はまだ二本足で立ち上がったばかりだし、難しいことは聞けない。
当時、教室でも日々の生活でも感じていたことだけど、使える表現や語句が限られていると、自分が何を求めているのか、髄のところまで考えてはっきり表現しないといけない(これは中国語ならではかもしれないけど、まだよくわからない)。
というわけで考える。今住んでいる地域で、、半年以内に、、日本語と英語しか話せない私にあった仕事は見つかるでしょうか、、みたいなことを質問をした気がする。なかば冗談で。
何回か三日月サイコロを振って(割とすぐにコツが掴めた)両面がでて、くじを引く。
と、ここでまたサイコロを振る。なんで!!と聞くと、このくじで合っているかの確認、とのこと。とても事務的。そういうところ好きだよ。完全にいらん動作に思えるけど、結果に神性が加味されて信じちゃいそう。
どうやら合っていたらしいので該当のおみくじシートをいただく。もちろん中国語なので友人に読んでもらうも、ふわっとした聞き方だったからか、答えも結構ふわっとしていて的を得ないらしい。係の人に聞いてみようと思っていたけどその日は他の方と熱弁を交わしていたので断念。友人いわく、やってみいだって!ということだった。まあ住み心地はいいし親日だしありかなあ、なんて思う、最後までふわついたファースト台湾みくじ体験だった。
でも、ここから得たものはかなりあった。
このあとも実験を兼ねて数カ所で数回してみたけども、この願い方は画期的!流れに身を任せがちな性格の自分には目から鱗だった。現地の仕事は探さなかったから見つからなかったけど、新しい友人や仕事に関する見立てはあっていた(あっていた、というか背中を大きく押されたというほうが近い)。
事細かに願い事の詳細を考えることで自分が何を欲しているのかがしっかり分析/理解できること、また何度も段階を踏んでようやくおみくじにありつける過程も、自問自答を促し、どんな形態の答えを探しているのかを自分に確認できる時間だった。
世の中の人は実はお寺に来ずともこういう過程を日々踏んでいるんだろうなあとも想像した。昔の人も、今みたいなビジネス/クリティカルシンキングが広まっていないころは、各地にあるこういったお祈りの場で信仰対象と対話しながら日々のつまづきや憧れに向き合っていたのかしら。いい自己分析装置だと思った。宗教学やその美術が好きなくせにここにきてやっと気づくとは。やっぱり全身浸らないとわからないことは多いね。
お願い事や聞きたいことを整理することで内容が細分化される。こうするといまどこで引っ掛かっているのかがわかる。ここまでくればあと何をしたらいいかが分かる。分かったらあとはもうやるだけ、行くだけ、あるいはその時が来たらサッと決断を下すだけなので、なかなか物事が進みやすい。
今まで全くこういうことをしてこなかったわけではない。仕事に関しては特に、ばさりばさりと判断をして進めなくてはならないわけだけど、こと自分のことになるとどうも手が止まっていた。こう、なったら、いいけど、、とかなんとか、向き合って想像しなかったり自分にその許可を出していなかったのだと思う。外部装置(寺)に頼ることでこういう「おそれ」(何と呼べばいいか)をいったん預けて考えてみるなんて、いったい誰が発明したのやら。もっと早く気づきたかったけど、ここで気づけてよかった。
ほしいわけではないがこうなったらいい、はたくさんある。
多分こういう憧れの欠片も突き詰めれば何か行動に変換できるのだろうなと思う。たまに自分に思い出させるために、たまに中華街に行こう(たまに)。
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