ポスト資本主義のパンクスと隣人愛
ひとかけらのピザですら、同じものは二つとして存在しない。
具材の大きさや分量、調理による化学変化の程度はもちろん、遺伝子レベルで見れば確実に異なる。
しかし、それらはラベリングされて同一のものとなり、私たちはそれを見て優劣を比較している。
シーフードピザ、Mサイズ、2000円。
ラベリングが目的化した今の社会の仕組みは、そろそろ崩壊するはずだ。
自然淘汰の中で多様化が種の存続可能性を上げるという仕組みの方がシンプルかつ強力であることは言うまでもない。
世の中に同じものなど何一つとして存在しない、むしろ異なることが前提である。
このことがいかに受け入れられ、尊重されるかが人間の幸福度の大部分を決定するのではないだろうか。
このために、今こそ”片手落ちの資本主義”から脱却することが必要である。
これは世の中で言うところの”ポスト資本主義”の実現に近いが、資本主義の否定ではなく、進化である。
片手落ちの資本主義
資本主義の原理による利潤追求。それを最も効率よく達成するために行き過ぎた”20世紀的な設定”。
その設定が市場経済全体の拡大を実現しなくなった今では、その原理が最大多数の最大幸福をもたらさなくなっていることは自明である。
エーリッヒフロムによれば、経済活動のみならず、あらゆる愛の形すらもその設定によって規定されている。
会社が規定されれば家も規定されてしまうのは当然だ。
映画「寝ても覚めても」のような愛の逃避行は許されず、悪とされる。
公私ともに埋め尽くされていることで、そもそもこの状況に気づき行動するための余白が存在しないことになるが、会社と家の間のサードコミュニティがあれば、そのトリガーになるのではないだろうか。
無論、AI(シンギュラリティ)→宇宙→ナノテクノロジーあたりは、真っ当に市場経済全体を拡大できる可能性は十分にある。
しかし、この世界線では今よりもさらに独占が進みそうだから、次章で言及する、本来の資本主義が備えていた利潤追求以外の側面、隣人愛の実践に目を向けたい。
そして、この文脈でこそコミュニティは本質的な価値を持つと考える。
NEWPEACEは、サードコミュニティを構築することで、20世紀的設定から解放し多様性を爆発させることをVISIONとして掲げている。
もう一方の手にあるべきものは「隣人愛」
いわゆる”資本主義”がダークサイドに落ちてしまった話なのかというと決してそうではない。
日本資本主義の父、渋沢栄一は、日本で株式会社や銀行というシステムを作り、500以上もの会社を誕生させた。
しかし、当初の構想は、経済合理性を追求する利益偏重主義ではなく、名著「論語と算盤」にあるように公益や社会貢献との両立を掲げている。
また、ポランニーは「大転換(1944)」にて、この渋沢の理想が崩壊したこと、つまり利潤追求一辺倒であること(市場関係と社会関係の包含関係の逆転が起こってしまっていると表現している)を指摘している。
しかし、最近では、私益と公益の二軸を備えた資本主義への回帰のための仕組みが実現しつつある。
2011年の論文においてマイケルポーターはCSRをCSV(Creating Shared Value:共通価値の創造)にアップデートし、果たさなければいけない責任であったCSRを価値創造という目的の文脈で語りやすくした。
米国では、”Redefine success in business”を目標にB Corporationという仕組みも生まれ、Kickstarterやパタゴニアなどを筆頭に世界に広がりつつある。
2020年以降の”逆大転換”を実現するためには、これらの仕組みが重要であることは間違いない。
しかし仕組みとはMVVにおけるバリューのようなものでしかなく、これだけでは物事は動かないのも事実である。
ビジョンないしはミッションが必要であり、それは、100年以上前にマックスウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(1905年)で利潤追求と並行で用いた「隣人愛の実践」の他にないだろう。
大好きなイーストウッドの映画「グラン・トリノ」のようにあらゆる障壁を越え、受け入れあい、尊重し合うことが「隣人愛」だと考える。
余談っぽくなるが、自分がFilmarksでのトップ3の評価の映画は、セッション、グラン・トリノ、ダンサーインザダークであり、「セッション」は最後の1シーン、フレッチャーの口角が上がる瞬間で救われる、これは類い稀なる才能を媒介にした隣人愛だし、「ダンサーインザダーク」は隣人愛がズタボロに(これ以上無残なものがないほどに)切り裂かれる中でのビョークの音楽が美しすぎる。
この「隣人愛の実践」が冒頭でも指摘した、(最大多数の最大)幸福の大部分であると思う。
これは結局のところ、貨幣の交換能力には限界があるという、当然なことに過ぎないかもしれないし、たまたま素敵な友人たちに恵まれてきたから、自分がそう思うだけかもしれないが、それくらいしか信じられることがない。
そして、この「隣人愛」という公益を実現する、最も手触り感のある事業がコミュニティだと考えている。
コミュニティの見直される価値と憧れ
インターネットで世界は狭くなった、だがない方が狭く感じる。(映画「トランセンデンス」の冒頭のナレーションより引用)
映画「トランセンデンス」は、いわゆるテクノロジーの暴走によるディストピアを描いた映画である。
コミュニティによってこの「狭さ」をデザインできれば、インターネットをはじめとするテクノロジーが豊かさをもたらし続けることが可能になるのではないだろうか。
禅的なレコメンドアルゴリズムでも書いたように、テクノロジーの発展によってローテクであるはずのコミュニティの価値は上昇しているようにすら思える。
やはりコロナによって少なからず影響を受けているのかもしれないが、コミュニティが自分の憧れとして確かなものになってきた。
卒論の研究で訪れた徳島県神山町は、地方創生事例の数少ない成功例(その「成功」に至った段階的なプロセスをケーススタディとして扱った)である。
そこにはグリーンバレーというオシャレな名称に、WEEK神山と言うオシャレなワーケーションホテルまであった。
しかし、何よりもそれが「成功」であると感じたのは、一週間ちょっと滞在しただけのよそ者であった自分が、帰り道に車からわざわざ声をかけられた瞬間だった。
豪雪の会津若松で会ったスナックの姉さんは、東京を1ミリも知らないからこそ幸せそうだった。
それは、空間によって区切られた閉じたコミュニティとして会津若松という街が機能しているからであろう。
本当に幸せでありうるのは、どう幸せになれるのかを知らない限りにおいてである。(東京には何でも存在してしまう。)
これらはコミュニティに対する幻想にすぎないのかもしれない。
しかし、それを事業として形にしていこうとしているのがNEWPEACEがやっていることだし、自分がやりたいことだ。
そして、これらをいち早く開拓していくためには、”パンク”でないといけない。
パンクスから生まれるコミュニティ
NEWPEACEが挑戦している事業は、まさにパンク的なDIY精神が根底にある。
「REING」はクリエイティブやD2Cを通じて「多様な個のあり方が祝福される世界の実現」を目指している。
この記事はほんの一例に過ぎないが、このインタビューでは「REINGは決してユーザーをカテゴライズしません」って言い切っている。
とはいえ、ユーザーをカテゴライズしない場合、ターゲットの設定が困難になるようにも思える。人にラベルを貼らずに、モノやサービスを作り、売っていくことは果たして可能なのだろうか。
と心配されるほどだ。笑
もちろんやり方なんて分からないのだが、あすかさんと雑談していても何パターンかの仮説は立ちそうだ。
とはいえ、既存のやり方を覆すためには、既存のやり方をマスターしきることは必要条件である。
この必要条件を満たしていくことも同時並行でやりながら、既存のやり方を無視できるレベルになりたい。
「6curry」は、「EXPERIENCE THE MIX」を合言葉に、「みんなでみんなが主人公になれる場をつくる」ことをビジョンに掲げ、例えば一度に二人までしか招待できないなど、会員制というわざわざ新規顧客を獲得しにくい入り口にしている。
コミュニティ体験をサービスとした会員制サブスク型の飲食店という意味で、誰もやったことがないことを自らの手で1から作り上げようとする試みであるからこそ、売上を減らしかねない仕組みにも果敢に挑戦している。
これは紛れもないDIY精神だと思う。
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いわゆる「パンクス」は、シンプルにパンクの複数形であるらしい。
パンクは人と違いすぎるから、パンクスとして群れていないとしんどいよねって話もあるだろうし、共感した人たちが周りに寄ってくるという意味もあって、複数形が一般化したのであろう。
誰だって一人じゃ何もできないし、怖い。
これは、VISIONINGからコミュニティを生む構想に近いのではないだろうか。
NEWPEACEはVISIONINGを起点として、コミュニティをエンパワーメントして行くプラットフォーム的な存在に変わろうとしている。
パンクのルーツであるsex pistolsのgod save the queenはno futureとか歌いながらも、何かが始まりそうな気がしてくるような曲だ。
その昔、パンクロックからグランジが生まれてロックの潮流を変えたように、NEWPEACEがコミュニティを生み出して、資本主義の潮流を変えられたらいいな。
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